改訂新版 世界大百科事典 「ペルガモン王国」の意味・わかりやすい解説
ペルガモン王国 (ペルガモンおうこく)
小アジア北西部の都市ペルガモンPergamon(現,トルコ領ベルガマ)を中心に,最盛期はミュシア,リュディア,フリュギア,ピシディアの各地方にまでまたがったヘレニズム時代の王国。前282年マケドニア系のフィレタイロスPhiletairosがセレウコス朝の宗主下にこの都市の支配者となり,前278-前276年にガラティア人の侵入を退けてアッタロス王朝の基礎を確立した。前262年エウメネス1世Eumenēs Ⅰはセレウコス朝から離反して独立した。沿岸地帯には前8世紀のギリシア人の大植民運動にまでさかのぼる植民市があり,自治を保持しながらも王家に貢納義務を負っていた。内陸部には王領地や大土地所有者の領地が広がり,その基礎となった原住民の村落共同体はヘレニズム文化の影響をあまり受けることなく,リュディア,ペルシアの時代からの姿を保っていた。富の基盤は穀物や果樹の栽培,牧畜のほかに,銀,銅などの鉱物資源,毛織物,羊皮紙などの手工業製品の産出にあった。ギリシア系の官僚と傭兵に支えられて王家は強大な権力を有していた。東のセレウコス朝シリア,西のマケドニアという2強国に挟まれ,独立を維持するためにローマと同盟を結んで安全を図り,前188年シリア戦争終結後の〈アパメイアの和約〉では小アジアのシリア領入手を認められ,強国への道を歩み始めた。
エウメネス2世の時代(前197-前159)に王国は最も繁栄し,標高335mの高さにある都市の中心部はその斜面に沿って新たな市壁,記念碑,列柱廊,大祭壇など,大理石の壮大な建築物で飾られた。医神アスクレピオスの信仰も盛んで,その神域では食餌・温泉治療などが施され,劇場,体育館も併設されて各地から信者を集めていた。またギリシア文化に造詣の深い国王が相次ぎ,ヘレニズム文化の保護者としての役割を果たすことになった。古典時代のギリシア彫刻の模作が数多く作られて建物を飾り,約20万巻の書物を蔵していたといわれる大図書館の規模はアレクサンドリア図書館に次ぐものであった。前133年アッタロス3世の死にあたって王国はローマに遺贈された。王の異母弟アリストニコスは王位継承を主張し,奴隷や下層民をも広く味方につけ,反ローマの大闘争を起こしたが,前128年に鎮圧され,この地にローマの属州のアシアが建設された。都市ペルガモンは,この後も総督の巡回裁判所の所在地となるなど,属州の主要都市として存続した。
執筆者:田村 孝
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報