日本歴史地名大系 「小切畑村」の解説 小切畑村こぎりはたむら 大分県:大野郡大野町小切畑村[現在地名]大野町長畑(ながはた) 小切畑光昌寺(こうしようじ)村の北東、成瀬(なるせ)川上流部にある。東は長小野(ながおの)村(現犬飼町)。正保郷帳に小切畠村とみえ、田高五五石余・畑高三三石余、土師(はじ)郷に属し、柴山有と注記される。当村西方の少里(しようり)は正保郷帳に少里村として記され、田高三三石余・畑高四石余、土師郷に属し、茅山有と注記される。同村は元禄・天保両郷帳にも記載があるが旧高旧領取調帳にはみえず、幕末までに小切畑村に吸収されたと推定される。旧高旧領取調帳の小切畑村の高一二八石余。安永七年(一七七八)には菅田組に属した(大庄屋・小庄屋・横目一覧「農民一揆」所収)。 小切畑村こぎりはたむら 大分県:臼杵市小切畑村[現在地名]臼杵市武山(たけやま) 小切畑・大工川(だいくがわ)提内(ひさげうち)村の南に位置し、臼杵川の上流域、同川支流勘場(かんば)川との合流点付近に立地する。村名の由来について「臼杵小鑑」は「小は樹(こ)にて、樹(き)を切て畑とせし故の名にや。猶考ふべし」と記す。枝村に大工川村がある。慶長二年(一五九七)の臼杵庄検地帳写(渡辺家文書)によると小切畑村は高二八石余、うち田方一四石余・畑方一四石余、村位は中。大工川村は高一七石余、うち田方一七石余・畑方三斗余、村位は中。同一一年の惣御高頭御帳では両村とも家野村組に属し、村役人は内蔵助。寛永一一年(一六三四)の郷村高付帳(臼杵藩政史料)でも両村とも家野村組に所属、のち掻懐組に属した(万用集)。 小切畑村こぎりはたむら 大分県:大野郡野津町小切畑村[現在地名]野津町都原(みやこばる) 新生(しんしよう)寺田(てらだ)村の北東にあり、北は生野原(しようのはる)村。慶長二年(一五九七)の野津院検地帳写(渡辺家文書)には小切畑村と寺田村など五ヵ村を一括した一冊が含まれ、村位は下。同一一年の惣御高頭御帳に小切畑村とあり、高一三石。香野村組に属した。正保二年(一六四五)の稲葉能登守知行高付帳には小桐畑村とあり、田方四石余・畑方八石余。 小切畑村こぎりはたむら 三重県:多気郡宮川村小切畑村[現在地名]宮川村小切畑本田木屋(ほんだごや)の西、宮川の左岸にある。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「三瀬谷之内小切畑村」と記される。元禄郷帳は小切畑村枝郷として浦ヶ谷村を記す。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数三八、人数一九〇。産物として木綿・煙草・茶・栗・渋柿がある。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by