日本歴史地名大系 「小堀村」の解説 小堀村こほりむら 広島県:甲奴郡上下町小堀村[現在地名]上下町小堀(こおり)二森(ふたもり)村の北に位置し、東は神石(じんせき)郡田頭(たんどう)村(現神石町)。集落は上下川の上流とその支流域に点在する。明応年中(一四九二―一五〇一)備中新見(にいみ)(現岡山県新見市)の城主三村備中守の一族新見能登守親員が当地に日向山(ひむかやま)城を築いたと伝える。城跡は村内中の村(なかのむら)にあり、村内長福(ちようふく)寺(曹洞宗)はその菩提寺で、新見氏がのちに長府(ちようふ)(現山口県下関市)に所替になった折、この寺に甲冑その他を寄付したという(備後古城記)。 小堀村こほりむら 福井県:大飯郡大飯町小堀村[現在地名]大飯町小堀本郷(ほんごう)村の西にあり、丹後街道に沿う。「若狭郡県志」に「小堀村属本郷、去小浜三里半許也」とある。村名は寛永一一年(一六三四)の酒井家々老連署郷組中掟書(荒木家文書)の宛名に「小堀村」とみえる。享和二年(一八〇二)の和田通船覚書(桑村家文書)に、<資料は省略されています>とある。小浜の桑村家の特権であった通船が江戸時代後半になると海岸の村へ着船も困難になり、その一件の争論文書であるが、小浜―和田(わだ)(現高浜町)間の通船がかなり頻繁であったことがわかる。 小堀村こぼりむら 滋賀県:長浜市小堀村[現在地名]長浜市小堀町西は八幡東(やわたひがし)村、北は河崎(かわさき)村、東は南田附(みなみたづけ)村に続く。延徳二年(一四九〇)一二月一三日の小堀道済寄進状(総持寺文書)によれば「小堀十五町之自名之内」にある一段を総持(そうじ)寺に寄進している。寛永石高帳に高五一九石余とあり、旗本渡辺領。以後高は変わらない。元禄郷帳では大久保忠高領。天明村高帳では遠江浜松藩領。弘化二年(一八四五)浜松藩主水野氏の出羽山形移封により、山形藩領となる。旧村社五所(ごしよ)神社はもと総持寺境内にあって、同寺の鎮守であった。明治八年(一八七五)現在地に移す。 小堀村おおほりむら 茨城県:取手市小堀村[現在地名]取手市小堀利根川北岸に位置する井野(いの)村の飛地で、明治一七年(一八八四)に独立して小堀村となった。また同四〇年代の利根川改修によって村域は利根川の南岸となった。「取手町郷土史資料集」によれば江戸初期には井野新田と称したが、地形が船着場に適するため、利根川を上り関宿(せきやど)(現千葉県東葛飾郡関宿町)から江戸川に入り、江戸へ物資を運ぶ基地として小堀河岸が栄えるようになり、最盛時には船頭らの関係者が五〇〇人ぐらいはいたといわれ、船頭の集りである「舟日マチ」には利根川下流の現北相馬郡利根町や対岸の現千葉県からも船頭が参集したといわれる。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by