小田井県神社(読み)おだいあがたじんじや

日本歴史地名大系 「小田井県神社」の解説

小田井県神社
おだいあがたじんじや

[現在地名]豊岡市小田井町

円山まるやま川に架かる堀川ほりかわ橋西詰の西方鎮座。祭神国作大己貴命。旧県社。「延喜式」神名帳に載る城崎きのさき郡の小社県神社に比定され、事情は不明ながら明治四年(一八七一)まで式内名神大社あま神社と同小社重浪しげなみ神社を併祀して小田井社と称していた。同年分祀。県神社は小田井県形成の拠点となる灌漑用泉「御田井」を神格化したもの、県主を祀ったもの、あるいは丹波道主命が勅を奉じて崇神天皇一一年に一社を創立して大己貴命を祭祀したものなど諸説がある。習合神名は小田井県大明神。

弘安八年(一二八五)の但馬国太田文には「小田井社 三十一町三反八十分」とみえ、「山門無動寺領」「領家日向律師昌範」「地頭新藤五郎三郎盛綱」の注記があり、社領田の内訳は仏神田二五町一反三二〇歩、領家所当五町五反大(うち分田二反)、徴使給一反、地頭給二反大である。本家無動むどう寺は比叡山東塔にある寺院。平安中期頃から小田井社の実権供僧が握っていたとみられ、所縁を求めて無動寺を本家と仰ぎ、社領田の確保をめざしたのであろう。建暦三年(一二一三)二月の慈鎮所領譲状(華頂要略)に「一 無動寺領(中略)但馬国小田井社」とある。天福二年(一二三四)八月の慈源所領注文(同書)にも無動寺領として記され、同寺領として相伝されてきた。領家の昌範については未詳。地頭の新藤盛綱は関東の御家人であるが、これも未詳。社領田には定田がなく、また地頭給も小面積であることが注目される。元弘の乱に際し後醍醐天皇隠岐を脱出して伯耆船上せんじよう(現鳥取県赤碕町)に拠ると、小田井社の社司神官等は神木・神宝を捧げて馳せ参じ、次いで後醍醐天皇方となった守護太田新左衛門尉守延の手に属して活躍した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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