小館村(読み)こだてむら

日本歴史地名大系 「小館村」の解説

小館村
こだてむら

[現在地名]青森市小館

入内にゆうない村の北方、入内川下流にある山村。寛文四年(一六六四)の高辻帳に高一五七・一石とある。貞享四年(一六八七)検地帳に田方三〇町九反五畝二二歩、畑方一一町六反六畝一五歩、田畑屋敷合せて四二町六反二畝七歩、村高二七〇・九九三石とあり、漆木四九五本が記される。元禄三年(一六九〇)には浦町組に属し、村位は下である(平山日記)。天保五年(一八三四)の郷村帳によれば、享和二年(一八〇二)に九〇・六石、文化五年(一八〇八)に二六・二石の新田高が書上げられている。明治初年の「新撰陸奥国誌」に「家数二十七軒。山岨に住す。(中略)土地菲薄にして田畑も少く食糧乏しけれは、炭を焼て常産とす」とある。


小館村
こだてむら

[現在地名]角館町岩瀬いわせ 小館

檜木内ひのきない川とたま川の合流点にあり、村域の大部分は両川の沖積低地。東は勝楽かつらく村、北は角館町に接する。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に一〇九石、新田と記される。元和六年(一六二〇)角館町の建設により現在地に移住、新田を開発したと伝えられる。享保八年(一七二三)の仙北郡郡村本村支村御高調帳(秋田県庁蔵)には家数六軒、本田と新田の合計当高九一石余とあり、支郷は岩瀬村八軒、石淵いしぶち村一軒とある。元治元年(一八六四)には当高八三石余で、家数は二三軒(「仙北郡奥北浦村々惣高家数人数馬数取調帳」小貫文書)


小館村
こたてむら

[現在地名]揖斐川町小谷こたて

じようヶ峰の南麓、大光寺だいこうじ村の東にある。村名は小さい城砦があったことにちなむか。小谷とも書く。慶長郷帳に小館村とみえ、高一〇八石余。元和二年(一六一六)の村高領知改帳では西尾嘉教(揖斐藩)領。正保郷帳では旗本(美濃代官)岡田善政領で、田七三石余・畑三二石余・山年貢一石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android