屋村(読み)あしやむら

日本歴史地名大系 「屋村」の解説

屋村
あしやむら

[現在地名]芦屋町西浜町にしはままち幸町さいわいまち白浜町しらはままちなかはま船頭町せんどうまち正門町せいもんまち高浜町たかはままち祇園町ぎおんまち浜口町はまぐちまち・芦屋・みどりおか花美坂はなみざか

遠賀川の河口左岸に位置し、北西は海(響灘)に面する。現芦屋町域の南東部を占め、遠賀川を挟んで北東は山鹿やまが村、同川支流西にし川を挟んで南東は島津しまづ(現遠賀町)、南は若松わかまつ村・鬼津おにづ(現同上)、西は糠塚ぬかづか(現岡垣町)。遠賀川の西岸を北流してきた西川は当地(現高浜町と祇園町の間)で遠賀川に注ぐ。唐津街道が通り、同街道の宿が置かれた。芦屋宿は筑前二十一宿の一つに数えられ、東方の若松宿(現北九州市若松区)と南西の赤間あかま宿(現宗像市)との間を継送った。郷村帳類では芦屋村(あるいは芦屋町)の一村(一町)で高付されているが、実際には遠賀川沿いの町場である芦屋町、同町の北に続く浦方の芦屋浦と、村方の芦屋村に分けて把握されることが多く、庄屋も浦・町・村のそれぞれに置かれた(芦屋町誌)。なお村方の南東部に位置する大城だいじよう粟屋あわやは当村枝郷として扱われ、大城村・粟屋村ともよばれたが、郷村帳類では当村の高に含まれて高付された。田圃志は枝村として大城・粟屋・芦屋町・市場いちば町・しん町・中村なかむら町・中小路なかしようじ町・今浦いまうら金屋かなや町・中ノ浜町・船頭町をあげる。「地理全誌」では芦屋町・芦屋浦・芦屋村の三村(町)に分けられ、うち芦屋町は船頭町・中ノ浜町・金屋町・中小路町・市場町・幸町・ひがし町の七町が本町で、横町として中ノ浜町に横町、中小路町に金台寺小路こんたいじしようじ観音寺小路、市場町に薬師小路・屋敷・横町、金屋町に寺ノ坂、幸町に三軒屋さんげんやの八町があった。市街の広さは市場下町から東町まで東西九町四六間、市場町から幸町まで南北三町四間であった。芦屋村の集落は本村の大城および粟屋・浜口・東・神武じんむの計五ヵ所、芦屋浦の集落は一ヵ所とする。

小早川時代の指出前之帳では芦屋村の田九町九反余(分米一三六石余)・畠三三町一反余(分大豆一七八石余)。慶長七年(一六〇二)の検地高一千一九九石余(慶長石高帳)


屋村
あしやむら

[現在地名]芦屋市東芦屋町ひがしあしやちよう山芦屋町やまあしやちよう西山町にしやまちよう西芦屋町にしあしやちよう月若町つきわかちようまつ内町うちちよう船戸町ふなどちよう業平町なりひらちよう前田町まえだちよう川西町かわにしちよう公光町きんみつちよう大枡町おおますちよう茶屋之町ちややのちよう精道町せいどうちよう平田北町ひらたきたちよう平田町ひらたちよう浜芦屋町はまあしやちよう竹園町たけぞのちよう伊勢町いせちよう松浜町まつはまちよう山手町やまてちよう城山しろやま奥山おくやま奥池南町おくいけみなみちよう・奥池町

芦屋川扇状地に位置し、川を中央にして北は六甲ろつこう山地から南は大阪湾まで南北に細長い短冊形の村域をなす。川床は高く、氾濫の被害も受けやすい。村南部を山陽道が横断。「和名抄兎原うはら葦屋あしや郷の遺称地で、古代には葦屋駅が置かれた。元来、葦屋の地名は広く六甲山南麓一帯の呼称で、「万葉集」巻九には血沼壮士と兎原壮士の二人の男に求婚され、懊悩の末に自殺した「葦屋処女」(兎原処女)の伝説を詠んだ田辺福麻呂や高橋虫麻呂の長歌がある。「伊勢物語」第八七段に「むかし、おとこ、津の国、むばらの郡、蘆屋の里にしるよしして、いきて住みけり、むかしの歌に、蘆の屋のなだの塩焼いとまなみ黄楊の小櫛もさゝず来にけり、とよみけるぞ、この里をよみける、こゝをなむ蘆屋の灘とはいひける」と芦屋の里が紹介されてから在原業平ゆかりの地とされるようになり、芦屋は歌枕として多くの歌に詠込まれた。

<資料は省略されています>

中世には付近に芦屋庄が成立し、中世末期には芦屋郷として打出うちで村とともに水利や入会山などの利用・管理権を行使した。羽柴秀吉の大坂城築城に際しては当地の山からも採石されたようで、天正一一年(一五八三)八月二九日には芦屋郷などで百姓に迷惑をかけたり、石持人夫らが勝手に宿泊したりすることを禁じた羽柴秀吉禁制(吉井良尚氏所蔵文書)が出され、また石材の積出しも行われた(年未詳一〇月二三日「羽柴秀吉朱印状」近江水口加藤文書)


屋村
あしやむら

[現在地名]浜坂町芦屋

浜坂村の西に位置し、北は海(日本海)に面する。地内の東側を流れる宮谷みやたに川は下流部では浜坂村との境界をなして海に注ぐ。集落西方のしろ山の山上に中世の芦屋城(諸寄城)、その東方山下には近世初頭に二方ふたかた郡支配の拠点となった芦屋陣屋があった。阿勢井(陰徳太平記)・芦生(因幡志)と書いて、「あせい」ともいった。弘治三年(一五五七)の「但馬国にしかた日記」に「あせい」とみえる。また「いまさいけ」とあるのは地内今在家いまざいけにあたると思われる。同日記によれば「あせい」には鰺飼丹後殿・小谷安芸殿ほか、今在家には塩冶主計亮殿・同兵衛左衛門尉殿・はし左衛門二郎殿ほかが居を構えていた。彼らは芦屋城主塩冶氏の一族や家臣であったと考えられる。清富相応峰きよどめそうおうみね寺の永禄年間(一五五八―七〇)の過去帳には「蘆屋ノ本願道(破損)(永禄二年分か)とみえ、また永禄六年分に「鰺飼弥兵衛ノ子息 宗言」とあるのは、前出鰺飼丹後殿との関連で当地の者と考えられる。

慶長六年(一六〇一)因幡国若桜藩領、同一〇年頃に旗本宮城領となり、寛永二〇年(一六四三)宮城氏が無嗣断絶となったため幕府領に転じ、寛文八年(一六六八)豊岡藩領となる。


屋村
つじやむら

[現在地名]信濃町大字穂波ほなみ

現信濃町の南部中央、落影おちかげ村で北国脇往還から分岐し坂中さかなか道に通ずる脇道に沿った村。東は落影村・小玉こだま(現牟礼村)、南は稲附いねつけ村枝郷石橋新田いしばししんでん村、西は枝郷のみや越新田こししんでん村、北は中島新田なかじましんでん村に接する。村の東部は丘陵で、これと西の宮ノ越丘陵(日ノ出山ともいい、標高七一三メートル)と南西の石橋新田村との間に平地が開ける。東部の丘陵下を坂中道への脇道が南北に通じ、そのほぼ中央に集落があり、そこから西へ宮ノ越新田村へ道を分岐する。

天正八年(一五八〇)一二月二九日、武田勝頼が城昌茂に沼津在陣中の功を賞して与えた宛行状(「古文書」内閣文庫蔵)に「信州河北之内稲附・辻屋分百貫文所」とみえるのが初見。


屋村
すすやむら

[現在地名]伊万里波多津町はたつちよう煤屋すすや

馬蛤潟新田まてがたしんでんの南。南北一キロに及ぶ細長い湾入を干拓。現在海岸にある字名は殿とんうら後津うしろづ前潟まえがた・煤屋・清水しみずうら皆治かいじうらだけになった。旧海岸であった字名が田浦たうら向潟むかいがたなどで、干拓された新字名が、かみ灰浦はいうら・下灰浦である。近隣の馬蛤潟や黒川くろがわ干拓地の字名に灰のつく地名があり、開拓地名であることを示している。正保絵図に「煤屋村」とあり、文化年中記録によれば「畝数二十五町九段五畝十五歩新田共ニ」とある。


屋村
こうじやむら

[現在地名]大田区東糀谷ひがしこうじや一―六丁目・西糀谷にしこうじや一―四丁目・羽田旭町はねだあさひちよう

下袋しもぶくろ村の南、海沿いの低平地に立地する。糀屋・糀谷とも記される。東部を多摩川分流の海老取えびとり川が北流して当地で海に注ぐ。慶長一四年(一六〇九)六郷ろくごう用水が完成した際、作事を担当した小泉次太夫吉次に報奨として麹屋村内の地が与えられ(「新用水堀定」平川家文書)、寛永四年(一六二七)の徳川秀忠知行宛行状(譜牒余録)によると、「下袋村」一七七石余など計四四一石余が小泉吉勝(小泉吉次の養子)に安堵されている。


屋村
くずやむら

[現在地名]七宗町上麻生かみあそう 葛屋くずや

天王てんのう山の麓、葛屋川上流の山間部に位置する。北は葉津はづ村、東は七宗山、南は室兼むろがね村。上麻生村の枝村で、葛屋組とも称した。「濃州徇行記」によると高九三石余、田畑一二町四反余、家数四八。明治五年(一八七二)の村明細帳では高九三石余、田高五二石余・畑高四〇石余・山高八斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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