中島新田村(読み)なかじましんでんむら

日本歴史地名大系 「中島新田村」の解説

中島新田村
なかじましんでんむら

[現在地名]西川町中島

角田かくだ山の北端に連なる砂丘の内陸側を弥彦やひこ街道が通り、その街道沿いの松野尾まつのお(現巻町)の東方に位置し、同村の枝郷。砂丘地と西川の自然堤防に囲まれたこの地域一帯は潟湖が多い低湿地であった。現在は広通ひろどおり江により排水をしん川に落し、美田と化しているが、元禄一一年(一六九八)の榊原式部大夫殿領分四万石拾ケ組絵図面(霜鳥家文書)には下山しもやま村・槙島まきじま村北方から西川にほぼ平行して雲知潟・しり潟・なが潟・はや潟・六字ろくじ潟が続き、その水路がいずみ(現新潟市)笠木かさぎ(現同上)に挟まれた西川に接続して描かれ、雲知潟西方に「中嶋」が幕府領として記される。


中島新田村
なかじましんでんむら

[現在地名]信濃町大字穂波ほなみ

現信濃町の南部中央。落影おちかげ村で北国脇往還から分岐して坂中さかなか道に通ずる筋道に沿った村。東は落影村、南は辻屋つじや村・みや越新田こししんでん村、西は御領ごりよう(料)新田しんでん村、北は落合新田おちあいしんでん村に接する。村の北部に丘陵が連なり、南に(七一三メートル)を望む平地が西方へ緩傾斜し、御領新田村との間に小古間こふるま川が曲折しつつ北流している。村の東端を南北に坂中道への筋道が通じ、その中央、西側に集落がある。

この地の新田開発がいつの頃か明らかでないが、一説では寛永年間(一六二四―四四)、長沼領主佐久間勝之の離散農民の還住策による再墾に始まるという(長野県町村誌)


中島新田村
なかしましんでんむら

[現在地名]中川区中島新なかじましん町・東中島ひがしなかじま町・昭和橋しようわばし通・畑田はただ

東起ひがしおこし村・法花ほつけ村はじめ九ヵ村と接する。「徇行記」によれば、田畑七二町六反余のうち田は四町一反余のみ。概し以降の新田が三町六反余あり、荒子あらこ観音かんのん寺領二反と中郷ちゆうごう村薬師堂料五反五畝が村内にある。集落は熱田あつた新田の古堤に沿って並び、東島・中屋敷西島三郷があった。


中島新田村
なかじましんでんむら

[現在地名]東金市東中島ひがしなかじま

下谷しもや新田の西に位置する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳中島村とみえ、高一二石。正保国絵図では中島新田、同高。寛文八年(一六六八)の鷹場五郷組合帳では田間組のうちに中島とあり、旗本渡辺領一五石。


中島新田村
なかじましんでんむら

[現在地名]祖父江町三丸渕さんまるぶち

東の中丸淵なかまるぶち新田村と西のかぶと新田との間にある。「尾張国地名考」では中丸淵新田村の枝郷とする。「寛文覚書」によると、概高九八石四斗余で、田二町二反五畝余・畑四町九反二畝余、家数九、人数七六とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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