山城谷
やましろだに
[現在地名]山城町大和川・若山・下川・大川持・寺野・相川・政友・柴川・瀬貝・脇・大月・大谷・佐連・茂地・小川谷・大野・信正・八千坊・黒川・頼広・赤谷・平野・岩戸・引地・末貞・国政・重実・中野・白川・光兼・仏子・尾又・粟山
吉野川左岸、伊予川および白川谷川流域を占める。南は西宇村、西は伊予国宇摩郡上山村・新瀬川村(現愛媛県新宮村)、北は馬路村・白地村(現池田町)。急峻な山間部に位置する。山背谷とも記された(阿波志)。地名は伊予国に設置された古代南海道の山背駅にかかわるとも推測される。
〔立地・名編成〕
阿陽旧跡記(県立図書館蔵)に「当谷は深谷也、東より西は高山、惣じて御境目也」とあるように、周囲を山に囲まれる。伊予国境にそびえる塩塚峰(一〇四三・四メートル)は細小の草木を生ずるが大木はないという(郡村誌)。その南東に位置する天狗岳(一〇六〇メートル)山上には大山祇神社が祀られており、東尾根筋には刀谷・陣立屋という平家の古跡がある。近世には捕鷹場に設定され、ハナノ鳥屋とよばれた(山城谷村史)。三傍示山(布生山・不生山とも、一一五七・八メートル)は山城谷の南西隅にあり、名のとおり阿波・伊予・土佐三国の境界上にそびえる。「阿波志」によれば木地師が居住していたという。峰畑山(七四七・九メートル)は北西端にあり、伊予国と三好郡佐野村(現池田町)の境界上に位置し、伊予国に通じる道などがあった(阿波志)。温石を産し、この石を焼いて炬燵・懐炉などに使用、明治以降は石筆・玩具などに利用された。三傍示山に発する白川谷川は東又を合せ、仏子名に入り光兼名を経て東流し、西宇字白川口で吉野川に注ぐ。正保四年(一六四七)の海陸道度帳によると、佐野村より山城谷のうち茂地村まで四里。伊予山分新宮村(現新宮村)に抜ける牛馬も通る道があった。吉野川と伊予川の合流点の川口は、宝暦年間(一七五一―六四)に池田村(現池田町)の船人により池田までの舟運が開かれ、物資の集散地となったという。
山城谷は中世以来の数十の名で編成され、近世初期までは現山城町域と同地域であったが、のち南東部の西宇村・上名村・下名村、通称三名が分離、独立した。中世の各名には一部を除き名主がいた。阿陽旧跡記には名数五四とあり、古くに落籠りした源・平・藤・橘士族の末裔がそれぞれ領していたという。同書により名を列挙すると、下川名・山戸(大和川)名・下宮地名・寺野名・大川持名・相川名・政友名・瀬貝名・脇名・大月名・国久名・宗行名・大谷名・芝川名・相達名・峯畠名(予州境目)・茂地名・小川名・大野名・兼藤名・楽友名・信政名・川越名・高梯名・鹿重名・清水名・上渡名・下渡名・重国名・小寺名・行重名・八千坊名・下森名・黒川名・瀬広名(頼広名の誤りか)・桑財名・岩戸名・那谷名・末貞名・引地名・川口名・国政名・重宝名(重実名の誤りか)・白川名・安上名・為元名・中野名・光金(光兼)名・桑ヶ内名・仏子名・阿波山名・藤川名・尾亦(尾又)名・平野名・小入道名・赤谷名・若山名・上大野名であった。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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