岐阜町(読み)ぎふまち

日本歴史地名大系 「岐阜町」の解説

岐阜町
ぎふまち

長良川左岸、金華きんか山の西麓一帯に位置。戦国期に岐阜城(稲葉山城)城下町として成立。慶長五年(一六〇〇)の廃城後は美濃国奉行の陣屋が置かれた。元和五年(一六一九)尾張藩領となり、以降同藩の奉行支配下の町として幕末に及んだ。

〔戦国時代〕

一帯はくちと称されており、斎藤道三が稲葉山城の城下町として基本的な町割を行ったとみられる。しかし近世の岐阜町の基礎は、永禄一〇年(一五六七)稲葉山城改め岐阜城に入った織田信長によってつくられたというべきである。信長は道三が大桑おおが城下(現山県郡高富町)の町民を稲葉山城下へ移住させて大桑おおくわ町をつくらせたように、清須きよす(現愛知県西春日井郡清洲町)など尾張の町民を岐阜へ移住させて、空穂屋うつぼや(靭屋町)しん町などをつくらせたという(「中島両以記文」川出文書)。岐阜城と当町の様子については、永禄一二年五月、キリシタン保護と布教の許可を求めて信長と会見し、約二週間岐阜に滞在した宣教師ルイス・フロイスが著した「日本史」に詳しい。同書によれば、岐阜の人口は八千ないし一万、塩を積んだ多くの馬や反物その他の品物を扱う商人が諸国から集まり、バビロンの混雑を思わせるほど賑やかであった。同年には公家の山科言継も七―八月と一一月の二度にわたって岐阜の信長を訪問しており、城と町の様を日記に記している。彼は最初塩屋を営み信長の馬廻でもあった大脇伝内の家に宿をとったが、のち信長の屋形に近い風呂屋与五郎の宿に移っている。「岐阜中大方見物」し、当町には悪銭が多く流通して売買が円滑にいかず、そのため酒が買えないと嘆いている(言継卿記)。なお信長は当町の南にあたる円徳えんとく寺門前の加納かのうの楽市場に対し、その特権を保証した。

以後城下町としての当町に対する領主の政策や町の実態は、史料が少ないため未詳であるが、天正一〇年(一五八二)本能寺の変から関ヶ原の戦に至る一八年間に城主が五人ほど交替していることから、それほどみるべき政策は打出されなかったのではないかとも思われる。

〔江戸時代〕

慶長五年に岐阜城は廃城となり、翌六年当町には、美濃の幕府領および美濃国を統治する徳川家康の腹心大久保長安(美濃国奉行)の陣屋(北屋敷)靭屋うつぼや町の東に置かれた。同年八月長安は伝馬諸役免許の一条を含む法度(本誓寺文書)を出し、当町の保護に当たっている。翌七年三月には家康から地子および伝馬夫役を免除する朱印状が下付された(明暦覚書)


岐阜町
ぎふまち

[現在地名]姫路市本町ほんまち

姫路城の北東から東の中曲輪に位置する武家地。案内社あんないしやの東の南北に長い町筋。町名は池田輝政のかつての領地であった岐阜に由来するという説や、古来刑罪を聴断する義部(刑部)の跡地とする説などがある(大正八年刊「姫路市史」)。播磨国衙巡行考証(智恵袋)によれば岐阜町ができるまで当地辺りを小野江おのえといい、梛の大木があったので梛本なぎもとともいった。府中社略記(同書)には、延暦六年(七八七)小野江に西方の水尾山から大己貴命(兵主神)を遷祀したとある。


岐阜町
ぎふまち

[現在地名]大垣市岐阜町・錦町にしきまち

大垣城の北東、牛屋うしや川の東岸に位置する。享保城下絵図に岐阜町とみえる。伝馬てんま町西端から北へ延び、享和元年(一八〇一)街路の長さ二町二四間余の町家地域(大垣市史)。もと高屋たかや村のうちで、寛永一四年(一六三七)町家となり、伝馬てんまきた町という(大垣城主歴代記)。大垣より呂久ろく(現本巣郡巣南町)を経て岐阜へ至る道沿いの町との意で岐阜町と称された出来町。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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