綿織物業(読み)めんおりものぎょう

改訂新版 世界大百科事典 「綿織物業」の意味・わかりやすい解説

綿織物業 (めんおりものぎょう)

綿花を主原料にして紡いだ糸(綿糸)を用いて織物をつくる業種の総称。綿織物は綿布とも呼ばれ,加工の有無によって生地綿布加工綿布に大別される。生地綿布は紡績したままの糸で織り,織り上げた後も精練や漂白をほどこさない綿布,加工綿布は精練,漂白,染色などの加工をほどこした綿布である。綿織物の特徴は価格が安くてじょうぶであると同時に,吸湿性や保温性に優れていることである。このため肌着や下着などの実用的な衣料に用いられるとともに,最近では高級衣料にも用いられ,広い用途に使用されている。近年,合成繊維織物の比重が大きく拡大してきたが,それでも綿織物の優れた特質から依然として繊維の王座の位置を失っていない。

綿織物は紀元前からインドで織られていたという。しかしそれが工場で大規模につくられるようになったのは,18世紀後半イギリスで産業革命がおこってからで,それまでは紡車と手機(てばた)による細々とした生産が行われていた。欧米でも産業革命以前の1780年代には,織物のうち羊毛75%,麻20%に対し,綿5%程度の割合にすぎなかったという。ところが18世紀後半以後,イギリスで綿織物をつくるための種々の機械がつぎつぎと発明され,綿織物生産は飛躍的に増大するとともに,綿織物業は産業革命の重要な担い手ともなった。すなわち1733年のJ.ケイの飛杼(とびひ)の発明に始まった織機の改良は,64年J.ハーグリーブズの数個の紡錘をもつ多軸紡績機の発明,68年のR.アークライトによる水力紡績機の発明,さらに85年E.カートライトの蒸気機関を利用した力織機まで続き,綿織物工業は産業革命期のイギリスにおいて飛躍的な発展をとげた。

 その後,綿織物工業はイギリスから他のヨーロッパ諸国,そしてアメリカに普及し,とくに19世紀末あたりからはアメリカ南部の綿花地帯に盛んになっていった。この間,1894年ころにアメリカのJ.H.ノースロップ自動織機,1902年にイギリスのハッタスリー社の自動織機の発明があり,近代的工業としての技術的基礎が固められた。20世紀に入ると,原綿産地における綿織物工業の形成がめだつようになり,インド,中国,メキシコなどの発展途上国の工業化において重要な役割をはたすようになっていった。
綿織物 →ワタ
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日本では16世紀前半には,薩摩国や綿種伝来の地である三河国で生産が始まっていたが(三河木綿),江戸時代に入るころには,三河,松坂,河内(河内木綿),小倉,博多などが産地として知られるようになった。製造に要する労力が相対的に少なく,防寒性に優れて安価な綿織物が,従来の麻に代わって庶民の衣料の中心となり,綿作は東北を除く各地に普及した。1786年(天明6)の調べでは大坂に,播磨(70万反),淡路,備前,周防(各40万反),和泉(20万反),河内,出雲,安芸,伊予,土佐,豊後(各10万反)などから合計285万反の白木綿が入荷していた。また18世紀末までには,縞(松坂,小倉など),絣(大和,薩摩など),縮(小倉など),絞(有松,博多,豊後など)などの特産地が形成された。また,従来のいざり機(地機)に代えて生産性の高い高機(たかばた)を用いる場合も増えてきた。19世紀に入るころには,綿作,紡糸,製織の工程間の分業が進み,商人が綿花または綿糸を農家に交付して製織させ,織賃を原料または貨幣で支払う問屋制家内工業が特産地を中心に展開した。さらに開港直前には,尾張(起(おこし)村),和泉(宇多大津村)などで,多くの高機を備え労働者を雇用して製織するマニュファクチュア工場制手工業)の存在したことが確認されている。ただしその事例は少なく,また必ずしも順調に発展していたとはみられないので,幕末の綿織物業の発展度は小商品生産の成熟期にあったというべきであろう。

開港とともに機械製の安価で均質な綿布がイギリスなどから大量に流入し,1874年には綿布需要の40%を占めるようになり,特産地を中心に機業地は大打撃を受けた。しかし綿業地は,原料の面では安価で均質の輸入綿糸に切りかえ,技術の面では〈バッタン〉(1874年に日本に紹介された飛杼)を高機に装置し,さらに松方デフレ下で農家副業織賃を引き下げて問屋制を再編することによって対抗力をつけ,88年には輸入綿布を需要の15%にまで抑え込んだ。このことは,綿糸需要創出によって機械制紡績業形成の前提をつくり出した。一方,1887年東京に設立された小名木川(おなきがわ)綿布会社が88年から開始した輸入力織機200台による広幅綿布生産は,主として紡績会社の兼営としてしだいに増加した。その後,89年に京都綿糸織物会社,大阪織布会社と各地に大量の力織機を装備した綿布工場が設立された。また97年には豊田佐吉が木製の力織機を完成,その後これを鉄製に改良,日本の綿織物業の発展に大きく寄与した。しかし粗布などの綿布は軍需以外に内需を見いだせず,中国・朝鮮への輸出に向けられ,その動きは1906年結成の三栄綿布組合(朝鮮向け),日本綿布輸出組合(〈満州〉向け)によって強められ,その結果,綿布輸出は09年に輸入を超え,11年には中国市場においてアメリカを抜いてイギリスに次ぐ地位を占めた。大阪,愛知などの機業地において量的に拡大してきた問屋制家内工業は,20世紀に入ると農家織賃上昇と紡績業の操業短縮による綿糸価格の硬直化とによって破綻(はたん)をきたした。日露戦争後には,白木綿を中心に,問屋商人が安価な半木製小幅力織機(豊田式などの国産品)を石油・ガス発動機と組み合わせて小工場を設ける動きが急速に進行し,1914年には兼営織布(生産額の34%)を除く機業地綿布の66%を工場(5人以上)製が占めるようになった。

 第1次大戦でイギリス綿布が中国,東南アジア等の市場から後退すると,これに代わって日本綿布が急速に進出して,1917年には綿糸に代わって綿布が金額でも輸出第1位となった。20年代には,機業地でも電動機,広幅力織機導入が進み,兼営織布では加工綿布生産と自動織機(1926年豊田自動織機製作所設立)導入が進められ,その結果,綿布の過半が輸出されるようになった。金輸出再禁止(1931年12月)に伴う為替安を支えとして綿布輸出はさらに増加し,ついに33年にはイギリスを抜いて輸出量世界一(20億9000万ヤード)となった。さらに34年には不振の生糸に代わって日本の輸出第1位となった。この間,1930年から機業地綿布は綿工連(日本綿織物工業組合連合会,1928設立)の生産調節,輸出検査のもとに置かれ,著しく生産が伸び,37年には生産の55%,輸出向けの45%を占めた。その結果,平均2000台以上の織機をもつ兼営織布41社に対して50台未満の機業者5万2000戸余(1934)という,大企業と零細企業の併存状態が続いた。しかし,世界各国のブロック経済化に伴って日本綿布は各地で輸入制限を受け,輸出額は1935年の10億円を頂点として減少しはじめた。日中戦争に伴う外貨獲得,節約政策の一環として,38年国内向綿製品の製造等が禁止され綿製品,綿花の輸出入リンク制が実施されると,兼営織布以外の機業者は紡績連合会加盟会社の賃織に編成されることになった。太平洋戦争に入るころから原綿不足で綿布生産は激減し,さらに機械の供出が進められた結果,敗戦時の織機数は最盛時(1937)の40万台余の10分の1以下の2万8000台にすぎなかった。
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第2次大戦後,綿織物業は外貨獲得産業としての育成策により急速に生産力を回復した。とくに朝鮮戦争に伴う〈糸へん景気〉により1951年以降,綿布輸出は再び世界第1位となった。しかし昭和30年代後半以降,発展途上国綿織物業の発展や世界的な合成繊維生産の伸びがあって日本の綿製品輸出は減退し,国内における過剰設備と零細な企業体質が相まって日本の綿織物業は厳しい構造的不況に陥った。そのなかで,1956年の対米輸出自主規制,62年の日米綿製品協定などによって,対先進国輸出はしだいに厳しくなっていった。こうした状況のもとで67年には〈特定繊維工業構造改善臨時措置法〉のもとに,過剰設備廃棄,設備近代化,企業規模適正化などの対策が進められ,さらに74年には〈繊維工業構造改善臨時措置法〉によって知識集約化による高付加価値化をめざす対策がとられてきた。

 第2次大戦後の日本の綿織物生産は,1961年の約34億m2をピークに以後減少し,80年代前半では約21億m2の水準でほぼ安定している。そのうち輸出が4億3000万m2である。輸入が2億9000万m2で(ともに1983),80年代に入り輸出がやや回復するとともに,輸入増大の傾向にある(1995年の生産は10億m2,うち輸出は3億m2)。吸湿性に優れ独特の風合いをもつ綿織物に対する需要は,一般的な天然繊維志向もあって,今後とも底堅いとみられる。しかし衣料消費の成熟化と発展途上国からの輸入圧力のもとで,綿織物生産の量的拡大は今後もむずかしい。今後は織機の新鋭化によるコストダウン,ファッション関連の高級綿製品分野の開拓などによる高付加価値化のいっそうの努力が,日本の綿織物業に要求される。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の綿織物業の言及

【産業革命】より

…とくに久留米,川越などの内地向け綿織,西陣,桐生などの内地向け絹織においては,問屋制家内工業が大正期まで強固に存続した。しかし綿織物業では,輸入綿糸の使用とバッタン機の導入によって輸入綿布に対抗し,1880年代末までに国内市場を支配し,90年代には紡績会社兼営の機械製綿布と在来綿布とが並んで朝鮮および中国へ輸出される。1900年代には兼営織布の輸出が順調に進むとともに,その後半に泉南,知多など先進綿布産地を中心に国産力織機(りきしよつき)と電動機を用いた力織機工場が成立してくる。…

【日本資本主義】より

…紡績業は紡績機械と原料綿花を輸入に依存し,最初から典型的な機械制大工業として発達し,輸入インド綿糸と対抗して国内市場を制覇するや,いち早く朝鮮および中国市場へ進出し,日露戦争後には朝鮮市場を支配し,中国市場でもインド綿糸を圧倒するに至る。綿織物業も紡績会社兼営織布を中心に,それに綿業先進地(泉南,知多)の機械製綿布が加わって朝鮮・中国向け輸出を増大し,日露戦争後には朝鮮・〈満州〉市場を支配するに至る。しかし綿業全体の対外収支は,綿花輸入代金の大きさのために支払超過であった。…

※「綿織物業」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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