改訂新版 世界大百科事典 「岐陽方秀」の意味・わかりやすい解説
岐陽方秀 (ぎようほうしゅう)
生没年:1361-1424(正平16・康安1-応永31)
室町前期の臨済宗の禅僧で,詩文に巧みであった。讃岐の出身,俗姓は佐伯氏。はじめ岐山道秀(あるいは生秀)とも称し,号は不二(ふに)道人という。1372年(文中1・応安5)に京都の東福寺に入り,ついで安国寺霊源性浚に就いて剃髪受具し,のちに霊源の法を嗣いでいる。周防の長寿寺,讃岐の道福寺に住したあと,京都の普門寺,東福寺,天竜寺,南禅寺に歴住し,晩年は東福寺栗棘(りつきよく)庵中に不二庵を建立して退居した。方秀は霊源のほかに,石窓泉,愚中周及,義堂周信,夢巌祖応,来日した中国僧天倫道彝などに教えを受けたが,五山文学の系統では夢巌(1374没)の門人であり,《不二遺稿》《琴川録》の詩文集や《碧巌不二鈔》《中峯広録不二鈔》等の抄物を著し,また朱子学に精通し,朱熹の《四書集註》の講席を開くなど,五山文芸界で大いに活躍して,将軍足利義持の帰依を受けた。門下には,関白一条兼良の俗兄雲章一慶や翺之(こうし)慧鳳がいる。
執筆者:竹貫 元勝
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