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岐陽方秀 きよう ほうしゅう

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

岐陽方秀 きよう-ほうしゅう

1362*-1424 室町時代の僧,五山文学者。
康安元=正平(しょうへい)16年12月25日生まれ。臨済(りんざい)宗。讃岐(さぬき)(香川県)の人。山城安国寺霊源性浚(りょうげん-しょうしゅん)の法をつぐ。京都東福寺,天竜寺,南禅寺などの住持をつとめ,東福寺に不二軒をひらいて隠棲。「四書集註(ししょしっちゅう)」に和点をくわえた。応永31年2月3日死去。64歳。俗姓は佐伯。別号に不二道人

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朝日日本歴史人物事典の解説

岐陽方秀

没年:応永31.2.3(1424.3.3)
生年:康安1/正平16(1361)
南北朝末から室町時代臨済宗の僧。讃岐(香川県)の人。はじめ道秀といい,不二道人とも称した。山城(京都府)安国寺の霊源性浚について出家,東福寺の首座を経て,讃岐の道福寺の住持となった。応永18(1411)年,東福寺の第80世となり,同25年には天竜寺の第64世となる。のち中風を患い,東福寺内に不二軒を構えて退居した。詩作にも優れていたが,特に学問に秀で,『日本僧宝伝』などの史伝類を編んだほか,多くの注釈書を選している。また,四書集註に訓点を付し,儒学研究にも大きな功績を残した。<著作>『不二和尚遺稿(琴川録)』『天関中禅師行実』『碧巌録不二抄』

(石井清純)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ぎようほうしゅう【岐陽方秀】

1361‐1424(正平16∥康安1‐応永31)
室町前期の臨済宗の禅僧で,詩文に巧みであった。讃岐の出身,俗姓は佐伯氏。はじめ岐山道秀(あるいは生秀)とも称し,号は不二(ふに)道人という。1372年(文中1∥応安5)に京都の東福寺に入り,ついで安国寺霊源性浚に就いて剃髪受具し,のちに霊源の法を嗣いでいる。周防の長寿寺,讃岐の道福寺に住したあと,京都の普門寺,東福寺,天竜寺,南禅寺に歴住し,晩年は東福寺栗棘(りつきよく)庵中に不二庵を建立して退居した。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

岐陽方秀
きようほうしゅう
(1361―1424)

室町前期の禅僧。讃岐(さぬき)(香川県)の人。父は佐伯(さえき)氏。国の騒乱のため父は北越へ出奔し、母とともに上洛(じょうらく)。祖父に儒学を学んだ。12歳のとき祖父は死に、母は貧困のため彼を東福寺の侍童とした。山城安国寺の霊源性浚(りょうげんしょうしゅん)のもとで薙髪(ちはつ)して8年間親炙(しんしゃ)し、以後鎌倉、周防(すおう)(山口県)の諸寺を巡り、南都仏教にも学んだ。29歳で東福寺に帰り、43歳で故郷讃岐の道福寺の住持となった。のちまた上洛して東福寺、天竜寺、南禅寺に住した。足利義持(あしかがよしもち)の帰依厚く、詩文学芸に名が高かった。詩文集『不二(ふじ)遺稿』3巻、抄物(しょうもの)『不二碧岩(へきがん)抄』などがある。[中本 環]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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