岡見村
おかみむら
[現在地名]三隅町岡見
那賀郡の最西端に位置し、北は日本海に臨む。山陰道が東の向野田村境より現国道九号とほぼ並行して日ノ垰・郷・宮ガ迫・西ノ谷の集落を経て美濃郡土田村(現益田市)に抜ける。海岸部の東部に松原浦、西部に須津浦がある。寛元二年(一二四四)一一月三日の三隅西念兼信譲状(吉川家文書)によると、三隅兼信が次男の永安兼祐に「すんつの浦」などを譲与した際、同浦の境界として「東ハ岡見湊限」とみえ、岡見湊は現須津漁港付近にあたるとみられる。永安氏の所領の中分が行われた際の嘉暦元年(一三二六)一二月一〇日の石見永安別符以下地頭職分文(同文書)にも寸津浦の東境としてみえる。なお同分文に「大嶋半分」がみえ、大嶋は須津漁港の沖約一〇〇メートル、周囲一・六キロ余の同名の小島に比定される。同島周辺の漁場にかかわる権益が折半されたものであろう。当地には三隅氏の支城である「大多和外」城があり、暦応五年(一三四二)二月二二日に三隅城に向かった北朝方の逸見有朝らは、大多和外など三ヵ所の城を包囲している(同年六月一八日「逸見大阿代子息有朝軍忠状写」小早川家文書など)。
岡見村
おかみむら
[現在地名]牛久町岡見
小野川左岸の台地上にあり、西は柏田村。弘安大田文の「河内郡廿七丁七段半」のなかに「岡見一丁八段」とある。応永二年(一三九五)の旦那願文写(米良文書)に
<資料は省略されています>
とある。小田城(現筑波郡筑波町)に拠った小田氏の一族岡見氏が、岡見城を築いて支配し、戦国末期には信太・河内両郡に勢力を伸ばした。天正一八年(一五九〇)小田原の北条氏の滅亡とともに岡見氏も衰え、岡見城も廃城となったと伝える。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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