日本歴史地名大系 「松原浦」の解説 松原浦まつばらうら 島根県:浜田市浅井村松原浦[現在地名]浜田市松原町松原湾に面し、近世の浅井(あさい)村の内。中(なか)門・福浦(ふくうら)門などを通じて浜田城郭内に接し、浜田藩の直浦として浦大年寄の支配下に置かれていた。山林・原野・水田などには恵まれず、畑五反余、東西二町・南北一町と狭い。元和五年(一六一九)古田重治が伊勢国松坂(まつさか)(現三重県松阪市)から転じてきたとき当地の西野氏・三浦氏らが市木(いちぎ)(現瑞穂町)まで出迎え、その褒賞として松原における地子銀が永代免じられたという(浜田市誌)。同年の古田領舟役加子役帳に「松原ミなと」の加子一三人の名がみえる。 松原浦まつばらうら 鹿児島県:姶良郡姶良町東餅田村松原浦[現在地名]姶良町東餅田・西餅田東餅田(ひがしもちだ)村・西餅田村にまたがる浦。松原は島津義弘の長女千鶴の化粧料地であったが、のち島津忠広(鹿児島藩主島津家久の子)に譲られた(姶良町郷土誌)。忠広は薩摩国荒田(あらた)(現鹿児島市)に住み、松原浦に年貢収納蔵をもっていた。また入来院氏の蔵もあり、同氏の家中が収納した。浦役人は荒田の島津家から派遣され、その配下の別当が勤務する別当屋敷は大小路(おおしようじ)にあった(入来町誌・帖佐村郷土誌)。寛政六年(一七九四)の帖佐由来記(県立図書館蔵)によると、天明六年(一七八六)の竈数一〇四、人数は男一二九・女一一四。 松原浦まつばらうら 長崎県:大村市松原村松原浦[現在地名]大村市松原本町・松原近世よりみえる内海に臨む湊津。「大村郷村記」によれば片泊で入江がなく、諸国の商い船は海に突き出した鹿(しか)島に係留、小船は江(え)川につないでいた。波除波戸は長さ五二間・横二間半で、天保一一年(一八四〇)大風の際の浦船囲場として新規に築いたもの。浦竈七〇軒、水主屋敷三反三畝余で、大坂登り水主二人は登坂のとき水主銀二五匁を免じられたうえ、一人前銭八貫文を浦中から支給された。煎海鼠の請負高は一千斤で、毎年産物会所に納めた。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by