日本歴史地名大系 「岩ヶ崎村」の解説 岩ヶ崎村いわがさきむら 宮城県:栗原郡栗駒町岩ヶ崎村[現在地名]栗駒町岩ヶ崎鳥沢(とりさわ)村の南、三迫(さんのはさま)川の左岸に立地する。東は三迫里谷(さとや)村、西は同松倉(まつくら)村、南西は同中野(なかの)村。当村も三迫に属し、三迫大肝入の管轄。南北朝期の創築とされる岩ヶ崎城(鶴丸館)は、近世には一家格などの有力家臣が配され、城下町が形成された。また交通の要衝として宿場もつくられ、玉造(たまつくり)郡岩出山(いわでやま)宿(現岩出山町)より磐井(いわい)郡一関(いちのせき)町(現岩手県一関市)に通じる上(かみ)街道、また当地より出羽に至る道が通る。鎌倉時代末とされる二月一三日付僧日道書状(大石寺文書)に「抑御使交名事、三迫ニハ下妻九郎岩崎地頭」とあり、これを当地初見とする説があるが未詳。「観蹟聞老志」に黒岩口(くろいわぐち)城とあり、岩ヶ崎城の古称とし、「吾妻鏡」文治五年(一一八九)八月七日条にみえる「黒岩口」に比定している。黒岩口は文治合戦で源頼朝軍の北上に対して平泉藤原氏が固めた一要衝である。 岩ヶ崎村いわがさきむら 千葉県:佐原市岩ヶ崎村[現在地名]佐原市佐原・岩(いわ)ヶ崎台(さきだい)利根川右岸に位置し、東は佐原村。銚子道が通る。根(ね)郷五ヵ村の一つ。中世には大戸(おおと)庄のうちに含まれ、岩崎村と記された。貞治三年(一三六四)四月八日の国分胤氏・胤詮連署田地売券(香取文書)によると、「下総国大戸庄岩崎村」内の田在家を直銭五〇貫文で「岩崎接持積善庵」に売却しているが、同田在家は永仁六年(一二九八)一二月二三日に下知状によって西阿に安堵されたものという。応安七年(一三七四)の海夫注文(同文書)にみえる「いわかさきの津」は当地先の岸辺に比定される。天正一二年(一五八四)頃には国分大膳が大崎(おおさき)にあった矢作(やはぎ)城から「岩ケ崎」に新城を築いて移ったと伝え、城は小田原北条氏の氏直の手に属したが、同一八年の北条氏滅亡とともに落城したという。 岩ヶ崎村いわがさきむら 新潟県:村上市岩ヶ崎村[現在地名]村上市岩ヶ崎鷹取(たかとり)山の山裾が岩壁となり西の日本海にせまり、南を三面(みおもて)川が岩壁に沿って流れて海に注ぐ。海へ突出た岬部分に集落があり、北は大月(おおづき)村に接する。出羽へ抜ける浜通が通る。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図に「大国但馬分岩屋か崎村 下」とみえ、本納二石三斗四升・縄高五石七斗四升、家三軒、岬突端に岩山とその陰に社が描かれる。正保国絵図に「岩ケ崎村」とあり、高一四石余。享保二〇年(一七三五)の村明細帳(岩ヶ崎区有文書)によれば、高三四石七斗余・田一町四反余・畑三町余、家数百姓七・水呑一、人数三六、船二(ただし磯網指小船)とあり、小物成として船頭米・船役米・鮭川役が記される。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by