江戸後期の本草学者。江戸・下谷に生まれる。名は常正。100俵五人扶持(ぶち)の幕臣。若年寄堀田正敦(まさあつ)(1758―1832)麾下(きか)の御徒(おかち)となる。武蔵(むさし)一円の薬草採集と写生に努め、24歳のとき小野蘭山(らんざん)に入門したが、3か月で蘭山は死去。公許の小石川薬園で栽培した薬種を毎年幕府に上納し、1826年(文政9)には江戸滞在中のP・F・B・シーボルトと植物について対談し、また、谷中(やなか)宅の又玄(ゆうげん)塾で本草講義を行った。1830年(天保1)から『本草図譜』を著し、毎年幕府に献じたが、これには和漢書のほか、オランダのワインマンJohann Wilhelm Weinmann(1683―1741)や、ドドネウスRembertus Dodonaeus(1517/1518―1585)らの著を引用している。天保13年64冊を最後に病没、江戸・浅草、永見寺に葬られた。没後、長男正蔵が96巻を完成した。ほかに『草木育種』『武江産物誌』『日光山草木図』などの著がある。
[根本曽代子]
(佐々木利和)
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江戸後期の本草家。名は常正,号は灌園,通称は源蔵,源三である。幕府の徒士の子で江戸下谷三枚橋に生まれる。1809年(文化6)幕府に出仕する。本草を小野蘭山に学んだ。28年(文政11)《本草図譜》96巻92冊を完成,30年(天保1)から44年(弘化1)にかけて出版した。本書は外国産も加えた約2000種の植物を収載する江戸時代最大の彩色植物図鑑である。
執筆者:矢部 一郎
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…やっと18世紀になって,貝原益軒の《大和本草》(1709)や稲生若水の《庶物類纂》(未完),小野蘭山《本草綱目啓蒙》(1806)などによって日本風の本草学が集成されていった。江戸時代末にはC.P.ツンベリーやP.F.vonシーボルトなどを介して西洋本草学の影響が及び飯沼慾斎《草木図説》(1852),岩崎灌園《本草図譜》(1828)などが出版され,日本の植物についての高い知見が示されていった。【岩槻 邦男】。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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