岩崎灌園(読み)イワサキカンエン

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精選版 日本国語大辞典 「岩崎灌園」の意味・読み・例文・類語

いわさき‐かんえん【岩崎灌園】

  1. 江戸後期の本草学者。江戸の人。名は常正。通称、源蔵。小野蘭山に本草学を学び、後年シーボルトの指導を受ける。主著「本草図譜」「救荒本草通解」「武江産物志」。天明六~天保一三年(一七八六‐一八四二

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩崎灌園」の意味・わかりやすい解説

岩崎灌園
いわさきかんえん
(1786―1842)

江戸後期の本草学者。江戸・下谷に生まれる。名は常正。100俵五人扶持(ぶち)の幕臣。若年寄堀田正敦(まさあつ)(1758―1832)麾下(きか)の御徒(おかち)となる。武蔵(むさし)一円の薬草採集と写生に努め、24歳のとき小野蘭山(らんざん)に入門したが、3か月で蘭山は死去。公許の小石川薬園で栽培した薬種を毎年幕府に上納し、1826年(文政9)には江戸滞在中のP・F・B・シーボルトと植物について対談し、また、谷中(やなか)宅の又玄(ゆうげん)塾で本草講義を行った。1830年(天保1)から『本草図譜』を著し、毎年幕府に献じたが、これには和漢書のほか、オランダのワインマンJohann Wilhelm Weinmann(1683―1741)や、ドドネウスRembertus Dodonaeus(1517/1518―1585)らの著を引用している。天保13年64冊を最後に病没、江戸・浅草、永見寺に葬られた。没後、長男正蔵が96巻を完成した。ほかに『草木育種』『武江産物誌』『日光山草木図』などの著がある。

[根本曽代子]


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改訂新版 世界大百科事典 「岩崎灌園」の意味・わかりやすい解説

岩崎灌園 (いわさきかんえん)
生没年:1786-1842(天明6-天保13)

江戸後期の本草家。名は常正,号は灌園,通称は源蔵,源三である。幕府の徒士の子で江戸下谷三枚橋に生まれる。1809年(文化6)幕府に出仕する。本草を小野蘭山に学んだ。28年(文政11)《本草図譜》96巻92冊を完成,30年(天保1)から44年(弘化1)にかけて出版した。本書外国産も加えた約2000種の植物を収載する江戸時代最大の彩色植物図鑑である。
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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「岩崎灌園」の解説

岩崎灌園 いわさき-かんえん

1786-1842 江戸時代後期の本草家。
天明6年6月26日生まれ。幕臣。晩年の小野蘭山に師事。文政11年約2000種の植物を収録した本格的彩色植物図鑑「本草図譜」96巻を完成。天保(てんぽう)13年1月29日死去。57歳。江戸出身。名は常正,万。字(あざな)は士方。通称は源蔵。著作に「武江産物志」「草木育種」など。

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世界大百科事典(旧版)内の岩崎灌園の言及

【本草学】より

…やっと18世紀になって,貝原益軒の《大和本草》(1709)や稲生若水の《庶物類纂》(未完),小野蘭山《本草綱目啓蒙》(1806)などによって日本風の本草学が集成されていった。江戸時代末にはC.P.ツンベリーやP.F.vonシーボルトなどを介して西洋本草学の影響が及び飯沼慾斎《草木図説》(1852),岩崎灌園《本草図譜》(1828)などが出版され,日本の植物についての高い知見が示されていった。【岩槻 邦男】。…

※「岩崎灌園」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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