岩手村(読み)いわでむら

日本歴史地名大系 「岩手村」の解説

岩手村
いわでむら

[現在地名]垂井町岩手

大石おおいし村の南西に位置し、岩手川が流れる。この谷筋を上ると岩手峠がある。石手・磐手とも書く。古代の定額寺菩提ぼだい寺の法灯を継ぐ菩提寺があり、戦国の知将とうたわれた竹中半兵衛重治の居城菩提山ぼだいやま城がある。嘉元四年(一三〇六)六月一二日の昭慶門院領目録(京都大学蔵古文書集)に「石手郷」とみえ、本家は昭慶門院、領家は兵衛督局、預所は藤原季氏であった。永正一五年(一五一八)九月二一日、守護土岐政房は「岩手之郷一部方二部方」を岩手長知に安堵し、敵方である子政頼と守護代斎藤利良方に付いた者が買得した田地などを新給として与えた(「土岐政房安堵状」大垣市立図書館蔵)

天正一七年(一五八九)一一月五日付の検地帳の一部が残り、検地役人は早川長政であった(岐阜県史)近世を通じて旗本竹中領で、同氏陣屋が置かれた。


岩手村
いわでむら

[現在地名]山梨市ひがし西にし

市川いちがわ村の東、八幡北やわたきた村の北に位置し、笛吹川中流右岸の傾斜地に立地する。中央部を同川支流西川が南流する。村名は西より大岩が突き出した所に家があることに由来し、東組と西組に分れていた(甲斐国志)。中世は岩手郷とよばれた。慶長六年(一六〇一)の検地帳(県立図書館蔵)によると、反別は田畑合せて三五町八反余、屋敷三千三三一坪、屋敷数三〇。慶長古高帳では高六四〇石余、幕府領。ほかに信成しんじよう(信盛)院領一八石余・大石おおいし大明神領二石余がある。領主の変遷は落合おちあい村に同じ。貞享元年(一六八四)の検地帳(県立図書館蔵)では高七九六石余、反別は田二四町六反余・畑三五町七反余、うち屋敷四町五反余。宝暦六年(一七五六)版の三郡村高帳では高八〇六石余、うち前々改出・新田高役引一六五石余。


岩手村
いわでむら

[現在地名]柿崎町岩手

北は米山寺べいさんじ村、南は下灰庭しもはいにわ新田と接し、集落内を柿崎川が流れ、黒岩くろいわ通が通る。永正一一年(一五一四)六月二二日付山吉妙寿書状(御巫文集)に「岩手要害」とみえ、五月二六日守護代長尾為景は守護上杉定実の部将宇佐美房忠の拠る岩手の城を攻め破っている。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図に「柿崎分岩出村 下」とみえ、本納一四四石一升一合・縄高一四五石九斗三升五合、家一三軒・三〇人とある。慶長三年(一五九八)の検地帳(国立史料館蔵)によれば、田方が上田二町五反余・三七石六斗余、中田一町七反余・二二石五斗余、下田四町九反余・五九石一斗余。


岩手村
いわてむら

[現在地名]金砂郷村岩手

山田川の下流西側の低地および台地上にあり、西は千手せんず村・下利員しもとしかず村。「常陸国風土記」の久慈郡の項に「有らゆる清き河(山田川)は、源、北の山に発り、近く郡家の南を経て、久慈の河に会ふ。(中略)其の河のふち石門いはとと謂ふ」と記されるが、石門は岩壁が川に突出たゆえの名で、この岩手に比定される。「新編常陸国誌」の高久氏の項に「延元元年、景義岩手河原ニ戦ヘリ〔飯野文書〕」とあり、佐竹知行目録(彰考館蔵)に無年号であるが「岩手之内白石はた 大縄七郎五郎」とみえる。


岩手村
いわてむら

[現在地名]扶桑町山那やな小淵おぶち

北には木曾川が流れ、東は北山名きたやな村、南と西は中般若なかはんにや(現江南市)に接する尾張北端の小村。東西四町四〇間・南北三町の小村域。寛永一一年(一六三四)に村高三三石余の全部が川欠けになった。「徇行記」によれば「不残一旦河決トナリ、悉ク田圃モツフレケルカ、追テヨリ砂タマリテ漸ク三石八斗余ノ御高附トハナレリ、農屋ハ囲堤ノ外、内川ト大川トノ間ニ区ヲナシ、隴畝モ其中ニアリ(中略)村北ニハ長百六十間ノ猿尾索回セリ、此辺ニテハ木曾川ノ瀬、南ノ方ヘ傾キ、水アテツヨキ所」である。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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