竹中半兵衛(読み)タケナカハンベエ

朝日日本歴史人物事典 「竹中半兵衛」の解説

竹中半兵衛

没年:天正7.6.13(1579.7.6)
生年:天文13(1544)
安土桃山時代の武将。美濃菩提山城主竹中重元の子。半兵衛というのは通称。名は,はじめ重虎といったが,のち重治と改めた。稲葉山城斎藤竜興に仕えていた永禄7(1564)年2月,竜興の寵臣政治にたまりかね,わずか十数名で稲葉山城を乗っ取ったことはよく知られている。その後,城は竜興に返したがそのまま蟄居し,同10年,織田信長が斎藤氏を滅ぼすと,豊臣秀吉の誘いによって信長方となり,元亀1(1570)年の姉川の戦のころから秀吉の与力につけられた。居城の菩提山城が美濃と近江の国境に近かったことから,近江浅井長政の家臣たちを味方にするという点で大活躍をし,「秀吉の軍師」などと呼ばれるようになる。中国攻めにも黒田孝高らと手腕を発揮し,知将といわれた。播磨三木城攻めの最中に発病し,向城の平山の陣中において病没。36歳の若さであった。

(小和田哲男)

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「竹中半兵衛」の意味・わかりやすい解説

竹中半兵衛
たけなかはんべえ
(?―1579)

戦国時代の武将。名は重治(しげはる)(重虎(しげとら)とも)。半兵衛は通称。美濃(みの)(岐阜県)不破(ふわ)郡岩手菩提(いわてぼだい)山城主。美濃三人衆の1人安東守就(あんどうもりなり)の女婿。俗説では領土欲なく、軍師に徹した人物と評される。初め斎藤龍興(たつおき)に仕える。1564年(永禄7)義父守就とともに龍興の居城稲葉山(いなばやま)城を奪取したが、すぐ龍興に返した。龍興没落後は織田信長に仕え、豊臣(とよとみ)秀吉に付属、秀吉麾下(きか)では智将、謀将として重んじられた。秀吉の諸戦の勝利は半兵衛の策によるところ大であったが、79年(天正7)秀吉の播磨(はりま)(兵庫県)平定戦に参加した際、三木城攻囲の陣中で6月13日病死した。35歳とも36歳ともいう。子孫はのち竹中流軍学をおこした。

[谷口研語]

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改訂新版 世界大百科事典 「竹中半兵衛」の意味・わかりやすい解説

竹中半兵衛 (たけなかはんべえ)
生没年:?-1579(天正7)

戦国時代の武将。岐阜市敬念寺文書によれば半兵衛尉重虎と称した。美濃の斎藤竜興に仕えて知謀の将といわれたが,1564年(永禄7)竜興の稲葉山城を急襲して奪った。ついで返還したものの斎藤家を去って織田信長に仕え,羽柴(豊臣)秀吉の与力となった。秀吉の参謀として中国征伐に幾多の戦果を収めたが,病没した。36~37歳という。画像,着用の具足などが末裔の家に伝存する。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「竹中半兵衛」の意味・わかりやすい解説

竹中半兵衛
たけなかはんべえ

[生]天文13(1544)
[没]天正7(1579).6.13. 播磨
安土桃山時代の武将。重元の子。名は重治。斎藤龍興の臣,のち織田氏に仕え,豊臣秀吉に従って転戦,秀吉帷幕の智将として知られた。

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百科事典マイペディア 「竹中半兵衛」の意味・わかりやすい解説

竹中半兵衛【たけなかはんべえ】

戦国時代の武将。名は重治。初め美濃(みの)の斎藤竜興に仕えたが,斎藤氏を見限り織田信長,次いで羽柴(豊臣)秀吉に仕えた。秀吉のもとで知将として活躍したが,播磨(はりま)三木城攻囲中,同国平山の陣で病死。

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