岩松村
いわまつむら
北境を石田川が南東へ流れ、東は備前島村、米沢村(現太田市)の耕地、南は堀口村の耕地、西は阿久津村。境―小泉往還が東西に走る。
中世新田庄に属し、東西二村に分れており、新田(足利)岩松家の名字の地。嘉応二年(一一七〇)の新田庄田畠在家目録写(正木文書)には「いぬまの郷 田三町五反卅たい 畠三反 在家三う」とあり、同目録を注進した享徳四年(一四五五)時には「ゆわまつ」の傍注がつけられている。室町期に作成された年月日未詳の新田庄知行分目録(同文書)によると、犬間郷が岩松氏惣領持国当知行分の筆頭に書上げられている。平安後期の犬間郷がのちに岩松郷に転化したのであろう。岩松郷は建保三年(一二一五)三月二二日付の将軍家政所下文(写、正木文書)で、岩松・下今居、田中(現新田町)の石田川流域三ヵ郷地頭職が新田義兼(新田氏祖義重の嫡子)から後家新田尼に譲られた。貞応三年(一二二四)正月二九日付で後家尼は同所を孫子時兼に譲与した(「新田尼譲状写」同文書)。
岩松村
いわまつむら
[現在地名]津島町岩松
岩松川の河口に位置する。北は高田村、南は下畑地村、西は近家村に接する。
慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)の宇和郡の項に「岩松村 川有、水損所」と村名がみえ、水害をうけやすい村であった。宇和島藩領。
太閤検地の石高は三四〇石五升八合で、耕地面積の比率は田八三パーセント、畑一七パーセントで、寛文検地では石高が一一パーセント減少し、田七二パーセント、畑二八パーセントとなっている。「
墅截」によると村柄は「上ノ下」、田が「上ノ中」、畑は「中」とされ、水利は「吉」となっている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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