日本大百科全書(ニッポニカ) 「岩門合戦」の意味・わかりやすい解説
岩門合戦
いわとかっせん
1285年(弘安8)、少弐景資(しょうにかげすけ)が、兄少弐経資(つねすけ)に対し、筑前国那珂郡(なかぐん)岩門(現、福岡県那珂川市)で反乱を起こし、敗死鎮圧された事件。同年11月、鎌倉で安達泰盛(あだちやすもり)が得宗被官(とくそうひかん)平頼綱(たいらのよりつな)と対立し、発生した霜月騒動(しもつきそうどう)が地方に波及した合戦。景資はモンゴル襲来の際、泰盛の子の安達盛宗(あだちもりむね)と共に、鎮西(ちんぜい)御家人を率いて活躍し、御家人たちの信頼を受けていたが、モンゴル合戦の恩賞は、惣領の経資に与えられるなど、御家人制の根幹である惣領制の支配を打破することはできなかった。一方、御家人たちもモンゴル合戦の恩賞地配分をめぐって不満が蓄積していた。景資はこれら不満分子の与望を受けて、それら勢力を結集したが、惣領経資によって鎮圧された。合戦後、没収された景資の所領は、モンゴル合戦恩賞地として、鎮西御家人に配分された。
[瀬野精一郎]
『川添昭二著「岩門合戦再論―鎮西における得宗支配の強化と武藤氏1」(森克己博士古稀記念会編『史学論集 対外関係と政治文化2』所収・1974・吉川弘文館)』