日本大百科全書(ニッポニカ) 「少弐経資」の意味・わかりやすい解説
少弐経資
しょうにつねすけ
(1226―1289)
鎌倉時代の武将。資能(すけよし)の嫡子。法名浄恵(じょうえ)。大宰(だざい)少弐・大宰府執行職(しぎょうしき)。蒙古(もうこ)襲来に際して活躍。筑前(ちくぜん)・豊前(ぶぜん)・肥前(ひぜん)・壱岐(いき)・対馬(つしま)国(いわゆる三前二島)の守護。また蒙古襲来期に一時は肥後(ひご)・筑後(ちくご)の守護ともなるが、まもなく肥後は安達(あだち)氏、筑後は宇都宮(うつのみや)氏、さらに豊前・肥前守護職は北条(ほうじょう)氏一門の手に移った。1285年(弘安8)弟景資(かげすけ)を岩門(いわと)合戦で破る。この合戦は現在の福岡県那珂川(なかがわ)市で戦われたが、霜月(しもつき)騒動の九州版ともいうべきもので、景資側に安達泰盛(やすもり)の子息盛宗(もりむね)(肥後(ひご)守護代)が荷担していた。しかし合戦の結果は、少弐経資の勝利となり、景資・盛宗側の所領はほとんど没収されたため、北条氏の恩賞地配分にとって絶好の機会となり、得宗専制はいよいよ強化された。翌1286年、幕府は博多(はかた)に鎮西談議所(ちんぜいだんぎしょ)を設置し、大友頼泰(よりやす)・宇都宮通房(みちふさ)らとともに、経資は頭人となった。
[山口隼正]