が師である梅山聞本(越前竜沢寺開山・能登総持寺一一世)を勧請開山として開創した寺院で(天正一二年七月七日「大洞院鐘銘」大洞院旧蔵)、初め大洞庵と称した。応永二二年一二月一八日の梅山聞本置文(竜沢寺文書)には、越前国
首座」の名が書かれている。正長元年(一四二八)八月一五日に造られた当院の梵鐘銘には「一宮庄大洞禅庵住持比丘天
」「檀越沙弥玄本 施主沙弥聖有」などとあり(大洞禅院大鐘銘写「当山室中宝蔵記」崇信寺蔵)、沙弥玄本は遠江守護代甲斐将久(常治)の家人大谷豊前入道玄本である(御前落居記録)。永享九年(一四三七)一月二五日、如仲は置文を書き、当院の住持は以後輪番制とすることを定め、国人武藤氏(一宮庄地頭)の寄進は断り、越前小布施氏を本願檀那とするようにと命じた(「如仲天
遺命」当山室中宝蔵記)。如仲の弟子のうち喜山性讃・真岩道空・不琢玄珪・石叟円桂・物外性応・大輝霊曜の六人は大洞院六派の祖といわれ、彼らとその門流は多くの寺を開いた。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報