島津村(読み)しまづむら

日本歴史地名大系 「島津村」の解説

島津村
しまづむら

[現在地名]遠賀町島津

現遠賀町域の北端部、遠賀川河口に近い左岸の平野(遠賀平野)に位置し、西辺を西にし川が北流する。東は遠賀川を隔てて猪熊いのくま(現水巻町)南西は西川を隔てて鬼津の若松おにづのわかまつ村。慶長(一五九六―一六一五)頃まで猪熊村は当村のうちであったが、その後別村となった。集落本村(峯・浦・中屋敷・坪ノ内)渋屋しぶやの二ヵ所(地理全誌)。至徳元年(一三八四)九月二七日の麻生義助知行目録写(麻生文書/南北朝遺文(九州編)五)に、山鹿庄一四四町のうち義助の知行しない他人知行所々の一つとして「嶋津村三十町 別野別当平号若狭介知行」とみえる。南北朝期、当地へはいまだ麻生氏惣領の支配権は及んでいなかったが、文安五年(一四四八)八月の麻生弘家知行目録写(同文書/筑前麻生文書)には内々帳面のうちに「一所 二十七町 嶋津村」とあり、室町期には麻生氏惣領の直接支配下に組込まれていた。


島津村
しまづむら

[現在地名]阿見町島津

北は霞ヶ浦に臨み、南は追原おつぱら村。「和名抄」記載の島津郷の遺称地とされ、天平勝宝五年(七五三)の墨書銘のある屏風下張布(正倉院宝物)に「信太郡嶋□郷戸主□三男□□□嶋」とある「嶋□郷」が嶋津と考えられている。中世は小田氏の支配下にあり、字御城みじように小田氏の家臣宮本内膳正が島津城を構えていたが、土岐氏に滅ぼされたと伝えられる。江戸時代は入組み支配で、天保八年(一八三七)には旗本伊奈・曲淵両氏の知行地、駒木根大内記ほか三名の組与力給地、天領に分れていた(「木原村三十三ケ村組合地頭性名并高帳」湯原家文書)。霞ヶ浦湖岸に河岸があり近代に入っても客船が発着した。

鎮守は鹿島神社(例祭一〇月二八日)で、明治六年(一八七三)村社となり、島津・石川いしかわ・追原・君島きみじま上条じようじよう飯倉いいぐら各村の総鎮守となった(湯原家文書)


島津村
しまづむら

[現在地名]熊野川町島津、三重県南牟婁郡紀和きわ小川口こがわぐち

玉置口たまきぐち村の東南にあり、玉置口村との間に木津呂きづろ(現三重県南牟婁郡紀和町)が深く入込んでいる。北山きたやま川が村の西から北・東を巡り流れる。北山川の東に小名小川口がある。慶長検地高目録によると村高八七石余、小物成四・三六九石。川内組に属し、和歌山藩新宮領。天保郷帳では高一〇九石余。近世後期の「新宮領分見聞記」は、家数四八でうち一四軒は小川口にあったことを記す。


島津村
しまづむら

[現在地名]有明町大字田野上たのうえ

現有明町のほぼ中央の平坦地、水田地帯の純農村。正保絵図に村名がみえる。

この地は鎌倉時代は日向通益(のちの白石氏)の所領であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

カイロス

宇宙事業会社スペースワンが開発した小型ロケット。固体燃料の3段式で、宇宙航空研究開発機構(JAXA)が開発を進めるイプシロンSよりもさらに小さい。スペースワンは契約から打ち上げまでの期間で世界最短を...

カイロスの用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android