遠賀町(読み)おんがちよう

日本歴史地名大系 「遠賀町」の解説

遠賀町
おんがちよう

面積:二二・一四平方キロ(境界未定)

遠賀郡東部の南寄り、遠賀川の河口近くの西岸に位置する。近世以来西郷にしごうとよばれる地域の一画を占め、北は芦屋あしや町、東は遠賀川を境に水巻みずまき町、南東は中間市、南は鞍手くらて鞍手町、西は岡垣おかがき町に接する。町域は遠賀川が形成した沖積層からなる遠賀平野の中心部にあたり、西端部を南北に遠賀山系が走る。しかし同山系の町域北端部にあたる尾崎の城おざきのじようこし(上ノ越)で標高一〇八・一メートル、最南端部(当町と岡垣町・鞍手町・宗像市の交点となっている)でも同二〇七・一メートルにすぎず、この山稜を抱えている尾崎別府べふ虫生津むしようづ地区以外に山らしい山はない。近世以来、平野部の村で石炭が燃料として重用されていたのも、村々に割当てられていた山が遠かったことが原因と思われる(遠賀町誌)。古く遠賀川の河口一帯は海が現在よりも内陸部に入り込んでおり、町域の一部はこの入海に面していたと考えられる。「日本書紀」などに水上交通の要衝としてみえるおか水門は遠賀川河口辺りに位置した津で、町域は同水門の一画であったとも考えられる。律令制の成立とともに町域は筑前遠賀おか郡に属し、同郡の郡家を尾崎の郡田ぐんたに比定する説もある。平安時代に遠賀川右岸を中心に山鹿庄が成立すると、同庄を拠点とする山鹿氏の勢力下に入ったと考えられる。中世には山鹿庄内麻生あそう庄を伝領した麻生氏の勢力下にあり、浅木あさぎを含む底井野そこいの郷は粥田かいた庄開発領主の系譜を引く開田氏(底井野氏)の支配下であった。戦国期には底井野郷内のねこ(現中間市)をめぐり宗像・麻生両氏が争うところとなった。なお遠賀郡は中世後期から近世初期にかけては御牧みまき郡ともよばれたが(御牧は三牧とも記した)、寛文四年(一六六四)幕命によって遠賀郡の旧称に復している。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「遠賀町」の意味・わかりやすい解説

遠賀〔町〕
おんが

福岡県北部,遠賀川の下流左岸にある町。 1964年町制。町域の大部分は遠賀川の低湿な沖積地で,米作農業地帯を形成。農業の経営規模は大きく労働力の不足を雇用労働力で補ってきたが,近年省力化のための機械化が進んでいる。南部地区には,産炭地域振興計画に基づき,鉱害地を埋立て,工業団地が造成されている。北九州市に近く,八幡地区などへの通勤者が多い。 JR鹿児島本線,国道3号線が通る。面積 22.15km2(境界未定)。人口 1万8723(2020)。

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