日本大百科全書(ニッポニカ) 「川崎造船所」の意味・わかりやすい解説
川崎造船所
かわさきぞうせんじょ
三菱(みつびし)造船所と並ぶ日本最大手の造船・造機会社。川崎正蔵(しょうぞう)が1878年(明治11)に建設した川崎築地(つきじ)造船所がその前身である。のち川崎兵庫造船所が設立され、また1886年に官営兵庫造船所の借用が許可されて、ここに川崎兵庫造船所を移転合併して川崎造船所が誕生した。続いて川崎築地造船所も神戸に移転し、翌1887年に官営兵庫造船所の払下げが確定して基礎が固まった。そして1896年には従業員約1800人の株式会社に改組された。
同社は創業まもないころから造船奨励法(1896年施行)に呼応し、同法適格第一号船伊予(いよ)丸や民間初の潜水艦などを建造した。明治末年には欧米から蒸気タービンなどを技術導入し、また車両部門にも乗り出した。
第一次世界大戦期には、ストック・ボート(需要増に対処するための見込み生産による在庫船)の建造を基礎に、飛躍的発展を遂げた。艦艇の建造高も増大した。加えて1916年(大正5)には兵庫工場を拡張して鋼材の自給体制を整え始め、また1918年には航空機、自動車の2部門を設置した。
戦後恐慌期は、多角経営を行い、また、ワシントン軍縮下ではあったが海軍からの非制限艦の発注があり、恐慌の甚大な影響からは免れた。しかし、1927年(昭和2)の金融恐慌で主要取引銀行の十五銀行が休業したこと、および1930年の金解禁によって、経営は破綻(はたん)し、大量の人員を整理するに至った。
しかし、1931年の金輸出再禁止と翌年から実施された船舶改善助成施設は、再生の契機となった。そして軍需景気の波に乗り、1937年に航空機部門を分離(川崎航空機株式会社の設立)したのち、1939年、資本金を2億円に増額し、社名を川崎重工業株式会社と改称した。(書籍版 1985年)
[御園謙吉]
『川崎重工業株式会社社史編さん室編・刊『川崎重工業株式会社社史』(1959)』