映画俳優。本名浅井善之助。香川県丸亀市出身。最大の当り役は〈旗本退屈男〉シリーズ。〈退屈男〉の異名をとる旗本・早乙女主水之介が,高笑いとともにけんらんたる衣装で登場し(その柄はほとんど右太衛門本人のデザインで,1本の作品の中で数点は着替えて見せた),悪人どもを大きな目ではったとにらみつけるや,額の三日月傷を指さして〈天下御免の向こう傷〉と名のりをあげる姿が人気を呼んだ。見得を切るさっそうとした立ち姿,流麗で余裕のある立回りの姿には,踊りと歌舞伎で鍛えた素地がうかがえる。日本舞踊を5歳のころから始め,やがて関西歌舞伎の市川右団次の門に入って,市川右一の芸名で関西青年歌舞伎の中心となった。映画初出演作は1925年,牧野省三の目に止まって入社したマキノ・プロでの《黒髪地獄》で,これより市川右太衛門と名のり,《快傑夜叉王》《孔雀の光》《新釈紫頭巾》《鳴門秘帖》などの時代劇に出演,たちまち人気スターとなった。だが,27年,デビュー作以来コンビを組んできた沼田紅緑監督の死を一契機に,市川右太衛門プロダクションを設立,奈良市郊外あやめヶ池の撮影所を拠点に,幕末の動乱期に新旧勢力のはざまで苦悩する武士を描いた伊藤大輔監督の名作《一殺多生剣》(1929)などのいわゆる〈傾向映画〉とともに,多くの時代劇を製作した。その1本が古海卓二監督《旗本退屈男》(1930)である。また,この間,松竹のトーキー時代劇《天一坊と伊賀亮》(1933)などに出演,舞台で鍛えた発声法で成功を収めた。36年,右太衛門プロを閉鎖して新興キネマへ,さらに42年,新興キネマを含む大日本映画製作株式会社(のちの大映)へと活躍の舞台は移るが,つねに旗本退屈男を当り役とした。第2次世界大戦後の49年,東横映画に転じ,占領軍の規制で時代劇がつくりにくい状態のもと,《難船崎の血闘》などの現代劇,いわゆる〈髷(まげ)をつけない時代劇〉に出演する一方,《お艶殺し》などの時代劇とともにやはり旗本退屈男を演じた。51年,東映設立に片岡千恵蔵とともに重役として参加,以後,時代劇王国・東映の中心スターとなった。むろん東映でも旗本退屈男が当り役で,63年まで演じ続け,さらに舞台,テレビでも演じた。
執筆者:山根 貞男
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俳優。本名浅井善之助(ぜんのすけ)。香川県丸亀(まるがめ)市生まれ。幼時より市川右一の名で歌舞伎(かぶき)の舞台で活躍したが、1925年(大正14)マキノプロへ入社、『黒髪地獄』(1925)で映画界にデビューした。以後、押し出しのりっぱな二枚目スターとしてたちまち人気を得、多くの時代劇映画に主演した。とくに1930年(昭和5)からの「旗本退屈男(はたもとたいくつおとこ)」シリーズは戦前・戦後を通じて31本を数え、彼の十八番となった。
[長崎 一]
『市川右太衛門著『旗本退屈男まかり通る』(1992・東京新聞出版局)』
… 1927年には高木新平プロダクションが設立され,京都吉田山下に新スタジオを建てたが,まもなく解散した。 同じ1927年,市川右太衛門プロダクションが設立され,奈良あやめ池遊園地に撮影所を建設,映画製作を始めたが,36年に解散した。撮影所は全勝キネマによって使用されたが,やがて全勝キネマは松竹傘下に入り,興亜映画となった(1941)のち,松竹に合体吸収された。…
※「市川右太衛門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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