日本歴史地名大系 「市橋村」の解説 市橋村いちはしむら 岐阜県:揖斐郡池田町市橋村[現在地名]池田町市橋、大垣市南市橋町(みなみいちはしちよう)現町域の最南端に位置し、大垣市の一部を含む村域であった。東を杭瀬(くいせ)川が南流、西方は金生(きんしよう)山系の山地が続く。享禄三年(一五三〇)の揖斐川の大洪水で流路が変わるまでは、杉野(すぎの)から当地に向かう流路が同川本流であったとされる。村内五穀(ごこく)寺の古木札に「井頭郷市橋神照院」とあるが、井頭(いのかしら)郷は明星輪(みようじようりん)寺(現大垣市)蔵の明徳四年(一三九三)三月一二日の年紀をもつ梵鐘陰刻銘に「池田郡井頭郷御嵩蔵王権現霊場」とみえる。「揖斐郡志」は同郷を恵渡(えど)村に関連するとしているが未詳。 市橋村いちはしむら 岐阜県:美濃加茂市市橋村[現在地名]美濃加茂市加茂野町市橋(かものちよういちはし)加茂野台地の北西にあり、東隣鷹之巣(たかのす)村と同じく東西二町・南北一七町と細長い。東から西へ南蜂屋(みなみはちや)川と北蜂屋川が流れる。慶長郷帳では幕府領で高一九五石余と山年貢米一石。以後幕末まで幕府領。正保郷帳によれば、田一五四石余・畑四一石余、ほかに小物成米一石の草野がある。文化一二年(一八一五)の村明細帳によれば、笠松(かさまつ)陣屋(現羽島郡笠松町)支配で家数三九(うち寺三)・人数一二八、馬八。臨済宗妙心寺末法幢(ほうどう)寺・黄檗宗神宮寺・曹洞宗徳雲(とくうん)寺がある。明治二年(一八六九)の村明細帳によれば、家数三四・人数一六〇、馬六。秣場一ヵ所があるが、鷹之巣村と入会秣場の北野をさすと思われる。 市橋村いちはしむら 福井県:敦賀市市橋村[現在地名]敦賀市市橋小河口(おごぐち)村の南東、疋田(ひきた)川の右岸に位置し、西近江路が通る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では疋田村に属した。正保郷帳に村名がみえ、田方四四石余・畠方四石余。享保一二年(一七二七)には、庄屋刑部(持高五石余)、牛馬銀二七匁、新山手銀三〇匁余、雉札銀一匁、夫米二石一斗余、馬足一〇疋、牝馬一五、家数三一(うち高持一八・無高一三)、人数一七一(敦賀郷方覚書)。馬借は疋田馬借座に属し、二〇疋をもった。承応元年(一六五二)六月には山中(やまなか)村国境(くにざかい)より道口(みちのくち)村に至る間の西近江路を改修、この時市橋・小河口両村間の廻り地蔵と称する険道を開削し平坦にした(道作物語)。 市橋村いちのはしむら 佐賀県:三養基郡上峰村市橋村[現在地名]上峰村大字江迎(えむかい)字八枚(はちまい)近世、坊所(ぼうじよ)郷の東部平地に立地し、地形低湿で堀が四通している。江迎(えむかい)村とともに環濠集落の島屋敷が多い。正保絵図に村名がみえる。南北に長く、北に枝村の蒲生(かもう)、南に八枚があり、郷村帳の多くはその南方の江越(えごし)村までを当村に含めている。 出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報 Sponserd by