疋田村(読み)ひきたむら

日本歴史地名大系 「疋田村」の解説

疋田村
ひきたむら

[現在地名]敦賀市疋田・深坂ふかさか

市橋いちはし村の南東に位置し、北東は塩津しおつ(新道野越)の通る奥野おくの村、南は西近江路が通る追分おいわけ村と接し、両道は当村内で合する。敦賀津まで二里の交通の要衝。古代の三関の一、愛発あらち関の所在を当地に求める説が有力であり、越前・能登・加賀鎮守府将軍藤原利仁の館跡伝承がある。なお利仁の後裔為頼は越前権介、北陸道七ケ国押領使・越前国惣追捕使で匹田斎藤と称した(尊卑分脈)。「源平盛衰記」巻二八(源氏追討使事)に「匹壇、三口行越えて、敦賀津に著きにけり」、「太平記」巻一七(金崎城攻事付野中八郎事)に「荒河参川守ハ丹後ノ勢八百余騎を率シテ疋壇ヨリ向ハル」とみえる。


疋田村
ひきだむら

[現在地名]市原市引田ひきだ

立野たての村の北に位置し、久留里くるり道が通る。要害ようがい城之腰じようのこし大手舞台おおてぶてえ馬込まごめ根古屋ねごやを含む一帯を中世の城跡とみて万台まんだい城跡とする。天文一三年(一五四四)の千眼神社蔵鰐口銘に海北かいほ郡引田薬師別当長泉坊本願六郎杢当処旦那中とみえる。永禄三年(一五六〇)一〇月一四日の北条家朱印状写(下総旧事)に引田とみえ、村上民部大輔の所望により守護不入とされている。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に村名がみえ、高一五〇石。元禄郷帳では高一六四石余。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では高一六八石余で家数二一、旗本酒井領と同心給知。


疋田村
ひきたむら

[現在地名]奈良市疋田ひきだ町・疋田町一―五丁目

青野あおの村西方に所在。西大寺田園目録に「添下郡右京二条四坊十五坪内四段。ヒキ田平松ニアリ」、「経覚私要鈔」長禄元年(一四五七)一一月一七日条に「西大寺引田」、「大乗院雑事記」文明一四年(一四八二)六月二九日条に「今夜疋田城焼之了、高山此間ハ河内方給恩之衆也、今度裏返了、同舎弟ハ疋田之大将也」とみえる。

文禄四年(一五九五)の大和国添下郡疋田村御検地帳(天理図書館文書)にみえる検地奉行は井上新介。末尾に「家数卅七(軒)内十七人役人 右之外やしき八間十間 弐畝廿歩 庄や彦四郎 庄や善七郎」と注記する。井上新介が奉行となった検地は添下郡で現在のところ山田やまだ村・万願寺まんがんじ(現大和郡山市)のみ知られ、家数と役人数の記載があるのが特徴。


疋田村
ひきだむら

[現在地名]金沢市疋田町

横枕よこまくら村の南西、金腐かなくさり川右岸に位置。「源平盛衰記」巻二八に、寿永二年(一一八三)四月越前ひうち(現福井県今庄町)に篭って平家軍を迎え討った加賀国住人に「匹田二郎俊平・子息小太郎俊弘」がみえ、当地にその居館跡があると伝える(加賀志徴)。富樫氏の同族疋田系斎藤氏の本領は越前国坂井さかい坪江つぼえ郷疋田(現福井県金津町付近か)と考えられ、「尊卑分脈」は「疋田小太郎利平」が木曾義仲に従い、翌三年一月二〇日近江国粟津あわづ(現滋賀県大津市)の合戦で討死したと記す。


疋田村
ひきたむら

[現在地名]新庄町大字疋田ひきだ

東は礒野いその(現大和高田市)を隔てて高田たかだ川を、北は尺土しやくど(現當麻町)を隔てて竹内たけのうち街道を望む平坦地に位置する。南は道穂みつぼ村から新庄村に至る。ヒキタは泓田(低湿地)の義か。布施氏の一族に疋田氏があった。江戸時代初期は幕府領(代官間宮三郎右衛門)。村高は一〇〇三・〇三七石。元和五年(一六一九)郡山藩(松平忠明)領に編入され、同藩の二割半無地高増政策で村高は一二五三・九二一石と増加した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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