常楽寺村(読み)じようらくじむら

日本歴史地名大系 「常楽寺村」の解説

常楽寺村
じようらくじむら

[現在地名]安土町常楽寺・上出かみで

下豊浦しもとようら村の西の平地に位置し、北は西にしの湖に面する。きぬがさ山西尾根南麓に飛地(現上出)があった。西は浅小井あさごい(現近江八幡市)。朝鮮人街道が東西に通り、西の湖に通じる掘割には湊があった。地名はかつて地内に沙沙貴ささき神社の神宮寺であったという常楽寺があったことによるが、同寺は戦国時代に焼失したといい、同寺に関係すると思われる地字・礎石・仏像などが伝わる(蒲生郡志)。「存覚上人袖日記」によれば貞治二年(一三六三)野洲やす錦織きんしよく(現中主町)から阿弥陀本尊が「佐々木栄楽寺妙円」に預け置かれているが、栄楽寺は常楽寺のことと思われる。明応(一四九二―一五〇一)頃の金剛輪こんごうりん(現愛知郡秦荘町)の下倉米銭下用帳(金剛輪寺文書)によれば六角氏御用材木を常楽寺へ進上している。天文四年(一五三五)の結解状(長命寺文書)に「常楽寺船人」とある。織田信長は元亀元年(一五七〇)二月二五日、常楽寺に滞留、天正三年(一五七五)四月二七日には坂本から当地へ船で渡っており(信長公記)、城下町形成以前から当地は湊として、また宿場として機能していたと考えられる。安土城時代には下豊浦村域とともに同城下の中核地域となり、当地はおもに町屋区域であったと想定される。


常楽寺村
じようらくじむら

[現在地名]湖陵町常楽寺

北流して神西じんざい湖に流入する常楽寺川に沿い、北は三部さんぶ村、南ははた村。浄楽寺・成楽寺とも書く。延応元年(一二三九)八月一八日の関東御教書(酒井宇吉氏所蔵文書)に「出雲国園山新庄地頭之高通申境相論事、本新庄成楽寺三箇所各別也、而為二箇所地頭等致妨云々」とみえ、鎌倉前期の神門かんど水海周辺地域には常楽寺・園山本そのやまほん庄・園山新庄の三つが隣接し、境界をめぐって相論が起こっていた。文永八年(一二七一)一一月日の杵築大社三月会相撲舞頭役結番帳に「常楽寺十六丁佐貫弥四郎」とみえ、鎌倉後期には東国御家人の佐貫氏が地頭として補任されていた。鎌倉末期以降の様子は不明な点が多いが、応永二年(一三九五)二月九日の維円譲状(鰐淵寺文書)に「坊舎・経田等者、維円相伝所也、常楽寺勘解由左衛門殿子息小法師丸、代々てつき文証等、悉相具、ゆつり渡所明鏡也」とある。


常楽寺村
じようらくじむら

[現在地名]吉田町常楽寺

西浦にしうら村の南に位置し、東は常友つねとも、西は山手やまての各村に接する。「芸藩通志」に「当村、昔常楽寺といへる寺ありて、後遂に一村の名となりしよりいひ伝ふ、広四丁、袤五町、北は山を負ひ村中にも小阜あり、大川南界を限る、此村過半常友村に挟る、飛郷三所同村に入る」とあるように、常友・山手の両村に挟まれた小村である。

元和五年(一六一九)の安芸国知行帳では村高一二六・五三八石を記すが、寛永一五年(一六三八)に検地があり(高田郡村々覚書)、「国郡志下調書出要約」は高一八三・〇七四石(八町六反余)を記し、内訳は古荒川成が三一・四一四石、毛付高一五一・六六石のうち地百姓が一〇五石余、入百姓が四五石余とある。


常楽寺村
じようらくじむら

[現在地名]出雲崎町常楽寺

小木おぎ村の南東、東は相田あいだ村。正保国絵図に高一七四石余で幕府領。以降の支配の変遷は神条かみじよう村と同じ。天和三年郷帳では高二五七石五斗余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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