出雲崎町(読み)いずもざきまち

日本歴史地名大系 「出雲崎町」の解説

出雲崎町
いずもざきまち

[現在地名]出雲崎町住吉すみよし町・石井いしい町・羽黒はぐろ町・鳴滝なるたき町・木折きおり

尼瀬あまぜ町の北西に町続きの北国街道沿いの海岸集落。永禄一一年(一五六八)一〇月二二日の上杉輝虎書状(東京大学史料編纂所所蔵文書)によると、本庄繁長との抗争にあたって栗林政頼に柏崎・出雲崎・新潟の三津を押えるよう命じている。御館の乱後の天正八年(一五八〇)閏三月一四日の上杉景勝朱印状(越佐史料稿本)に「出雲崎椎名分、白井分」を御料所となし、この代官を小木おぎ城将板屋修理亮に命じている。同一三年三月七日の上杉景勝朱印状(越佐史料稿本)によると、後藤入道勝元を佐渡使者として派遣したとき出雲崎に船一艘を用意させ、渡海の港と定めている。同年六月一六日の上杉景勝朱印状(読史堂古文書「編年文書」)には出雲崎に宛て越中国さかいまで米二〇〇俵の運送を命じている。おそらく豊臣秀吉の佐々成政攻め支援のための兵糧米であろう。同一八年以降と思われる一〇月晦日付豊臣秀吉朱印状(津軽文書)によると、津軽為信に対して「景勝分領」の「いつも崎」などから鷹の餌を納めるよう命じている。慶長二年(一五九七)秀吉は秋田実季を代官として伏見ふしみ(現京都府)の用材杉板を陸奥国・出羽国諸郡に割当てているが、このとき出雲崎の橘屋次郎左衛門尉も運送にあたっており、二間板九〇枚を秋田(現秋田市)から敦賀つるが(現福井県)まで運んでいる(同三年「秋田藤太郎材木入用帳案」・同三年「橘屋次郎左衛門尉板請取状」秋田家文書)

慶長三年上杉景勝会津移封後は堀秀治の所領となった。同一〇年の堀秀治書状(鳥井儀資氏蔵)には、大津理右衛門・三上吉兵衛に対して百姓の佐渡渡海を取締り、百姓の欠落・逃散防止を命じている。同一一年の覚(野口家文書)では、当地の京屋与右衛門を柏崎から新潟までの塩浜奉行に任じ、在方商人・代官給人にかかわらず塩の売買を禁じ、かつ塩焼からは米一升に対し塩三升の換算で買取るなど一一ヵ条を示して、取締りを命じている。条目のなかには他国からの商い塩についても一項を設けている。


出雲崎町
いずもざきまち

面積:四四・七九平方キロ

郡南西部に位置し、北は和島わしま村、東は与板よいた町・三島みしま町、南は刈羽郡西山にしやま町。西山丘陵を背後にして日本海沿岸に細長く連なる海岸集落(旧出雲崎町)と、その東方に広がる西山丘陵・三島丘陵に挟まれた小盆地・小扇状地谷間の集落群(旧西越村)とで構成される。丘陵は西山丘陵が標高一五〇メートル未満、三島丘陵が二五〇メートル未満で、比較的なだらかである。海岸集落には新潟―越後七浦シーサイドラインと連絡する寺泊てらどまり―出雲崎―柏崎間の国道四〇二号・三五二号(北国街道)が走り、西山丘陵と三島丘陵の間に北流する島崎しまざき川沿いに国道一一六号(浜街道)が走る。国道一一六号と海岸道路を結ぶ西山丘陵横断の東西の道が数本と三島町方面とを結ぶ県道中永線が開かれている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「出雲崎町」の意味・わかりやすい解説

出雲崎〔町〕
いずもざき

新潟県中部,日本海に面する町。1889年町制。1957年西越村合体。中心集落の出雲崎は日本海に沿う旧北陸街道宿場町。江戸時代には佐渡鉱山の陸揚げ港として発展し,出雲崎陣屋も置かれた。西山丘陵の崖下の狭い浜辺に連なる町並みは,南北約 6kmに及び,典型的な街村をなしている。南の尼瀬は 1890年日本最初の近代的掘削方式により油井が掘られ,明治,大正期を通じて重要な産油地であった。漁業のほか米作,畜産が行なわれる。良寛の生地。良寛記念館,石油記念館があり,海水浴客でにぎわう。JR越後線,沿岸部を国道352号線が通る。面積 44.38km2人口 4113(2020)。

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