幡羅郷
はらごう
「和名抄」高山寺本・伊勢本・東急本とも「波良」と読み、同書名博本は「ハラ」と訓を付す。長屋王家木簡には「阿波国長郡波羅里黒米五斗」、平城宮跡出土木簡には「阿波国那賀郡播羅郷海部里戸主安曇部大嶋戸同部若麻呂調御取鮑 六斤 天平七年十月」と、「(表)阿波国那賀郡原郷白米五斗」「(裏)戸主百済牧夫戸同
前守」がある。七一〇年代前半の郡里制のもとでは「波羅里」が黒米を貢進していたが、天平七年(七三五)には郡郷里制のもとで幡羅郷海部里が鮑を貢進しており、さらに七四〇年代以降の郡郷制のもとで原郷が白米を貢進している。つまり八世紀前・中期の幡羅郷(里)は、米が貢進物になる水田地帯と鮑のような海産物が貢進物になる海辺の地とから成り立っているのである。
幡羅郷
はらごう
「和名抄」諸本にみえる郷名。名博本に「ハラ」の振仮名がある。「遠江国風土記伝」は「今ノ原谷」とし、「掛川誌稿」は各和・高田・幡鎌(現掛川市)の三〇村にあてる。「大日本地名辞書」も原谷・原田・原泉(現同上)の諸村とする。
幡羅郷
はらごう
「和名抄」高山寺本には訓を欠く。東急本には「波良」と訓を付す。のち奈良東大寺便補の原保、京都天龍寺領の原郷が成立する。
幡羅郷
はらごう
「和名抄」所載の郷。諸本ともに訓を欠くが、郡名と同じくハラであろう。諸説のいずれも現深谷市の原郷をその遺称地として、そこを中心とする一帯とみている。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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