美和神社(読み)みわじんじゃ

精選版 日本国語大辞典 「美和神社」の意味・読み・例文・類語

みわ‐じんじゃ【美和神社】

山梨県笛吹市御坂町二之宮にある神社。旧県社。祭神大物主神景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)大和国奈良県三輪明神を勧請したと伝えられる。甲斐国の二宮。美和明神。

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日本歴史地名大系 「美和神社」の解説

美和神社
みわじんじや

[現在地名]御坂町二之宮

二之宮にのみや集落の北部に鎮座する。大物主命を祭神とし、旧県社。もとは東方尾山おやま郷の山宮やまみや神社の地にあったが、雄略天皇一二年九月に現在地に遷座したと伝える(社記)。史料上確認できるのは「三代実録」の記載で、貞観五年(八六三)六月八日に美和神が従五位上、同八年三月二八日に正五位下、同一八年七月一一日に正五位上、元慶四年(八八〇)二月八日に従四位下へと昇叙したことが知られる。「甲斐国志」によると、これより先の嘉祥四年(八五一)に従五位下勲一二等を賜ったとされ、またその後一条天皇の時に二宮の号を与えられたという。

蒙古襲来に際して、朝廷は各地の寺社、とくに諸国一宮などに対して外敵退散・撃退を祈祷させるが、当社でもそれが実施され、その功により後宇多天皇により正一位勲一等が授けられ、「正一位美和大明神」の神額を与えられたという。応永年間(一三九四―一四二八)には「国主正一位薫壱美和大明神」の神額を後小松天皇から与えられた(社記)。二宮の称は貞治三年(一三六四)二月一五日の一蓮寺寺領目録(一蓮寺文書)にみえるのが早く、同二年七月一〇日に一条甲斐守信方後家現阿が寄進した経田九段のうち「四反二宮経田小石和」とある。文明五年(一四七三)一一月吉日の紀年銘を持つ梵鐘の銘文(甲斐国志)、「王代記」「勝山記」によれば、同四年四月二二日に信濃国佐久さく郡の豪族大井氏が甲斐に乱入、花鳥はなとり山に拠点をおいて甲斐守護武田信昌に対抗し、五月二〇日に武田軍と合戦して敗走した事件に絡んで当社も略奪などの被害を受けたため、信昌と沙門道秀(福光国寺の僧侶か)が修復したという。銘文中に信昌は当社を「鎮護国家之神」と呼称しており、外敵の侵入という国家的危機に際会し、これを辛うじて退けたことを記念・感謝して武田氏が修造したことがうかがわれる。

戦国時代初期になって、守護武田信昌の重臣楠甫昌勝の年未詳二月二七日付書状(向嶽寺文書)のなかに、「当国一・二・三・弓矢八幡も御照覧久存贔屓事一点無之候」という起請文言を記しており、二宮が一宮(現一宮町浅間神社)、三宮(現甲府市玉諸神社)や武田氏の氏神である八幡(現韮崎市武田八幡神社)とともに、自らの誓約内容への不履行防止を支えるための権威を確立していた事例として注目される。

美和神社
みわじんじや

[現在地名]桐生市宮本町二丁目

物見ものみ山丘陵の南端にあり、西背後に吾妻あづま山、東前面は市街地を望む。旧郷社。祭神は大物主奇甕玉命・建速須佐之男命多野たの上野うえの泉龍せんりゆう寺蔵の大般若経巻五七八の奥書(年紀不明)に「大物主櫛玉命村松美和社」とある。

「延喜式」神名帳の山田郡に「美和ミワノ神社」がみえ、当社に比定される。美和神は延暦一五年(七九六)官社となり(「日本後紀」同年八月一六日条)、元慶四年(八八〇)には正五位下に進階した(「三代実録」同年五月二五日条)。一宮本「上野国神名帳」山田郡に従一位三輪大明神とあり、当社に比定されるが、群書類従本・総社本には記されない。

美和神社
みわじんじや

[現在地名]長野市大字三輪 本郷

「延喜式」神名帳記載の水内みのち郡内九座中の一。祭神は大物主命で、相殿に国業比売神・神服部神を祀る。相殿の国業比売神については「三代実録」貞観三年(八六一)二月七日条に「授信濃国正六位上国業比売神従五位下」とある。神名・祭神ともに大和国の大神おおみわ神社と同じで、これに関係ある美和族の奉斎した神社と考えられている。「三代実録」の貞観八年二月条に、

<資料は省略されています>

とあって、三和神に兵疾の災いを防ぐため、国師・講師に奉幣読経させている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報