平津村(読み)ひらづむら

日本歴史地名大系 「平津村」の解説

平津村
ひらづむら

[現在地名]遊佐町小原田おはらだ

月光がつこう川中流左岸、大楯おおだて村の東に位置する。東側の平津山山腹には平津館跡がある。南北四〇メートル・東西五三メートルの土塁があり、南北の土塁には堀がある。館主は殿塚弾正で、嘉吉年間(一四四一―四四)南朝の北畠顕信が奉じた帝立太子が、ここに身をおいたという伝えがある(「帝立寺由来記」帝立寺文書)。元和八年(一六二二)の酒井氏知行目録では高二四六石余。寛永元年庄内高辻帳では高二三二石余。寛文九年(一六六九)検地帳(平津区有文書)では高二三五石余、反畝合計一九町五反余、名請人二四、最も保有地の多いのは甚左衛門で二町五反余、次いで又十郎二町余、以下一町以上二町未満五、五反以上一町未満八、五反未満九。


平津村
ひらつむら

[現在地名]大津市平津一―二丁目・千町せんちよう一丁目・南郷なんごう三丁目・石山平津町いしやまひらつちよう

寺辺てらべ村の南、瀬田せた川西岸にあり、宇治路と岩間いわま越が通る。天正期(一五七三―九二)石山寺奉行を勤め八千石を領したという井上重尚の城跡が残る。織田信長に当地を追われたというが、子孫は財川氏を称して引続き当村に住み、石山寺公文所に仕えていたようで、寛文一一年(一六七一)の寺辺村神事祭礼一札(平津村方書類)に「平津村財川殿御侍衆中」の名がみえる。


平津村
へいづむら

[現在地名]四日市市平津町・平津新へいづしん

朝明あさけ川の南岸に位置し、対岸は千代田ちよだ村、西にはなか村がある。村内を薦野こもの(現三重郡菰野町)へ通ずる街道が走る。江戸時代は初め桑名藩領、文政六年(一八二三)以降おし(現行田市)藩領。天保一三年(一八四二)以降幕府領、のち再び忍藩領。慶安郷帳(明大刑博蔵)には「萱生之内」とある。宝永八年(一七一一)村差出帳(徳川林政史蔵)によれば新田畑分として「未之改五衛門起」三反一畝余と「卯亥之改」二町二反一畝余があり、また萱生かよう村の耕地が田方一〇町六反余、畑方一町三反余ある。


平津村
ひらつむら

[現在地名]加古川市米田町平津よねだちようひらつ

加古川村の北西、加古川下流域西岸に位置する。山陽道沿いの村。慶長国絵図に「平沢村」とあるのが当村と思われる。正保郷帳によると田方二八九石余・畑方四〇石余。宝暦七年(一七五七)村明細帳(糟谷家文書)では田一八町一反余・分米三三〇石余、畑四町七反余・分米三三石余、新田畑三反余・分米一石余、小物成は犬米・弐厘米・草藁銀・請林運上・柿渋、扶持馬飼給料米二斗三升余、家数五一・人数二六七。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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