小原田村(読み)こはらだむら

日本歴史地名大系 「小原田村」の解説

小原田村
こはらだむら

[現在地名]郡山市小原田一―五丁目・昭和しようわ一―二丁目・菱田町ひしだまち栄町さかえまち愛宕町あたごまち山根町やまねまち図景ずけい一―二丁目・深沢ふかざわ一―二丁目・七ッ池町ななついけまち香久池かぐいけ一―二丁目・菜根さいこん一―五丁目・名倉なぐら中田なかだ北田きただなど

郡山村の南、阿武隈川西岸の河岸段丘平地に立地。奥州道中の宿駅が置かれ、中心部は町之内まちのうちと称したという。中世小荒田こあらだ・名倉・早水はやみずは当村地内に比定され、応永一一年(一四〇四)七月日の仙道諸家一揆傘連判(有造館本結城古文書写)安積伊東氏一族とみられる「名倉 藤原祐清」がみえ、同年頃のものと推定される石川氏一族を中心とした国人一揆傘連判断簡(秋田藩家蔵白川文書)に「早水 藤原祐藤」がみえる。ともに篠川公方のもとに結集したものと推定されている。永享一一年(一四三九)頃のものと推定される安積三郷田地注文(相殿八幡文書)みなみ郷のうちとして「名倉二丁五段 小荒田二丁五段 早水二丁」とみえる。天文一二年(一五四三)安積あさか郡に侵入した田村隆顕は蘆名・伊東両氏軍を破り、同年一〇月名倉・小荒田など安積郡西部一帯を攻め取った(観集直山章)


小原田村
おはらたむら

[現在地名]橋本市小原田

橋本川右岸の小高い丘陵地にあり、南北に高野街道が通る。相賀庄惣社大明神神事帳写(相賀大神社文書)所収の天授三年(一三七七)頃の文書によれば、相賀大おうがだい神社八月放生会に米一斗を納めている。慶長検地高目録によると村高一五五石余、小物成七斗九升四合。上組に属し、慶安四年(一六五一)の上組在々田畠小物成改帳控(土屋家文書)では家数二一(本役五など)、人数八一、牛五、小物成は茶八斤、紙木六束。

薬師やくし(高野山真言宗)は本尊薬師如来。


小原田村
おわらたむら

[現在地名]大江町字小原田

蓼原たでわら村中宮津街道から西方山中に入った所にある農山村。標高一五〇メートル前後の谷間や丘に集落が散在する。枝郷として小谷こだにがあった(丹哥府志)

源氏の落人村上氏、江州から来た川戸勘兵衛の子孫仏性寺ぶつしようじ村から移住した高橋善太夫の子孫らが開いた村と伝える。

慶長検地郷村帳に高一三一・二三石「小原田村」とみえ、延宝九年(一六八一)の延高で一八五・四九八石になった(天和元年宮津領村高帳)


小原田村
おはらだむら

[現在地名]大原町小原田

下庄しもしよう村の北西に位置し、北は笹岡ささおか村。「東作誌」によれば宇喜多氏の時代に下庄村より分村したという。正保郷帳に村名がみえ、田六一石余・畑一七石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一五石余・開高四石余、村位は下。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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