広峯神社(読み)ひろみねじんじや

日本歴史地名大系 「広峯神社」の解説

広峯神社
ひろみねじんじや

[現在地名]姫路市広嶺山

広嶺ひろみね(三一二・一メートル)の山上の平坦地に鎮座する。広嶺山の名は山上の広い平坦地にちなむという。祭神は正殿に素盞嗚尊・五十猛命(素盞嗚尊の御子神)、左殿に奇稲田媛命(素盞嗚尊の妻神)・脚摩乳命(奇稲田媛命の父神)・手摩乳命(奇稲田媛命の母神)、右殿に正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊など八神(素盞嗚尊の御子神)、およびそのほか多くの神々を祀る。旧県社。

〔創祀伝承〕

創祀時期は不詳であるが、「兵庫県神社誌」は神功皇后の新羅征討の際、白幣はくへい山に素盞嗚尊を祀って勝利を祈願したとの伝承を記している。白幣山は現在の広峯神社の社殿のある峰の西にある西にしの峯をさす。「改暦雑事記」によると、広峯社はもと西の峯にあり、現社地に遷されたのは天禄三年(九七二)という。以上のことから、広峯社の起源は白幣山の名が示すように、西の峯の山上に白い幣を立てて祀った山の信仰であろう。

西の峯には今は吉備真備を祀る祠がある。「播磨鑑」所収の社記や「峯相記」は、天平五年(七三三)に吉備真備が唐から帰朝する際、この地に素盞嗚尊の神霊を見て、のち社殿を創建したと伝えている。吉備真備が帰朝したのは同七年で、史実と異なる天平五年に設定することに意味があったのかは不明。当社の創祀と吉備真備とを結び付けるのは、当社の信仰と牛頭天王・武塔天神の信仰が結び付いて以後のことと思われる。すなわち「備後国風土記」逸文(釈日本紀)に蘇民将来と武塔の神との説話が載り、蘇民将来に助けられた武塔の神が「吾は速須佐雄の神なり」と名乗っている。このような説話が「備後国風土記」に取入れられたということは、旧吉備地方に武塔天神の信仰、さらに武塔天神と素盞嗚尊を結び付ける信仰が普及していたためであろう。それは同じ山陽道の播磨国にも及び、素盞嗚尊を祀る広峯社の信仰にも影響を及ぼし、当社の創祀と旧吉備国を象徴する人物である吉備真備とが結び付けられたと推測される。なお前掲逸文では、蘇民将来が武塔の神を宿に泊めて歓待したため、茅の輪の護符を腰に付けるように教えられ、疫病を免れたと語られている。この説話は各地に広がり、蘇民将来は疫病を免れる護符の一種となって今も信仰されている。

〔風神信仰〕

「三代実録」貞観八年(八六六)七月一三日条に「播磨国无位速素盞嗚神、速風武雄神並授従五位下」とあり、広峯社の主祭神を素盞嗚尊とするところから、この記事は広峯社への神階奉叙記事とされている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報