広戸村(読み)ひろどむら

日本歴史地名大系 「広戸村」の解説

広戸村
ひろどむら

[現在地名]勝北町市場いちば大岩おおいわ大吉おおよし奥津川おくつがわ日本原にほんばら

現町域北部一帯を占め、南は新野にいの三ヵ村。広戸仙(爪ヶ城)の南麓扇状地に立地。広戸川上流域に大吉、その西のまえ川上流域に大岩、大岩の南に市場とならび、さらに南が日本原。奥津川は広戸仙とその南西の山形仙やまがたせんとの間のこえヶ乢を越えた所(現苫田郡加茂町境)。「東作誌」では草屋くさや(大吉)・大岩分・市場分・奥津川分に分けて記載され、慶安年間(一六四八―五二)の分郷といい、各村とも庄屋を置く。当地は播磨広峯ひろみね神社(現兵庫県姫路市)の信仰圏で、同社社家林家長の文明一四年(一四八二)八月一〇日の檀那村書(肥塚家文書)に「ひろとノ内、くさやえ左衛門」などとあり、天文八年(一五三九)の檀那引付、同一四年の同社社家肥塚氏の檀那村付帳(ともに同文書)などにも「ひろとの内くさ村一ゑん」「大いわ村」「ひろと四反田村」などとみえる。


広戸村
ひろとむら

[現在地名]深浦町広戸

西は日本海に面し、道路は海岸沿いに発達し、東北は追良瀬おいらせ村、西南は深浦村に通じる。天文年間(一五三二―五五)の津軽郡中名字に「飛浪途ひろと」とみえる。

正保二年(一六四五)の津軽知行高之帳の鼻和はなわ郡に広戸村とあり、一〇三・七三石、うち田方九六・二三石とある。慶安年間(一六四八―五二)に家数が一五軒という(西津軽郡史)。貞享四年(一六八七)検地帳によれば、田畑屋敷合わせて一六町二反二畝二八歩、村高一一三・六七一石、うち田方一三町六反七畝三歩で一〇六・八四八石、上田から下々田まで設定され、中田が四町五反三畝一四歩、四〇・八一二石、下田五町六反五畝二五歩、三九・六〇八石とあり、畑方二町五反五畝二五歩で六・八二三石、上畑がなく中・下・下々畑で、下々畑が一町七反五畝二九歩、一・七六石とみえ、屋敷が五反一畝二四歩あり、そのうち二五歩の郷蔵屋敷がある。


広戸村
ひろどむら

[現在地名]吉井町広戸

西勢実にしせいじつ村の南にあり、四方に連なる標高二五〇―三〇〇メートルの山々と、その緩斜面からなる谷間の村。慶長一〇年(一六〇五)備前国高物成帳(備陽記)仁堀にぼり庄に村名がみえ、寛永備前国絵図では高二〇二石余。享保六年(一七二一)の蔵入并知行高村分帳によると直高二六四石余、うち一九七石余が家臣二名の給地、六六石余が蔵入地。文化年間(一八〇四―一八)には、蔵入地が一三八石余に増加している(岡山藩領手鑑)正保郷帳には枝村のぶ村が載る。「備陽記」によれば枝村は延谷のぶたに、田畠二一町一反余、家数三九・人数二〇八、池三。


広戸村
ひろとむら

[現在地名]御代田町広戸

浅間山南麓斜面が断崖をなして川に落ちる近くに位置し、草越くさごえ村・児玉こだま村に接し、湯川を挟んで久能くのう村と対する。文禄四年(一五九五)の御郡中永楽高辻(大井文書)には「七貫七百六拾四文 広戸村」とみえる。

水利に恵まれず寛永一七年(一六四〇)の村高一〇石四斗のうち、田方一斗三升五合、畑方一〇石二斗六升五合(「領内村々高・草山・薪山書上帳」小山佐一氏蔵)である。これは、明治一一年(一八七八)に至っても田方八町三段余に対し畑が四六町三段余で「多ク稗ヲ作リ、土地黒ニシテ質悪」の状態であった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

部分連合

与野党が協議して、政策ごとに野党が特定の法案成立などで協力すること。パーシャル連合。[補説]閣僚は出さないが与党としてふるまう閣外協力より、与党への協力度は低い。...

部分連合の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android