日本大百科全書(ニッポニカ) 「建国神話」の意味・わかりやすい解説
建国神話
けんこくしんわ
天上とか、どこか遠い国から英雄がやってきて、その土地に国を創設し、人々を治め、都を定めるという筋(すじ)の神話。多くの場合神の意志や命令によってなされ、しばしばその事業の途中に天佑(てんゆう)神助が伴っているが、ほとんどが特定の王家や首長家の由来話となっており、その創建者が始祖とされている。
ギリシア・ローマ神話の世界では、フェニキアの王子カドモスがその兄弟たちとともに、ゼウスにかどわかされた妹エウロペを捜し求めて旅を続け、さまざまな危難を経たのち冒険を果たしてテバイの町を建て、王家の始祖となった話とか、トロヤの英雄アエネアス(アイネイアス)が、落城ののちに部下を連れてトラキア、デロス、クレタ、シシリー、カルタゴなどを回って漂泊、航海を続け、最後にイタリアのラビニウムに至って国を建て、後世、ローマの建設者とされた2兄弟ロムルスとレムスの先祖となったという伝承などが有名である。
また『旧約聖書』にみえる、ヘブライの民を率いてエジプトを脱出した預言者モーセが、神の冥助(めいじょ)により王の追跡を撃退し、紅海を渡ったのちにシナイ山で神の教えを受け、カナンの地に国を建てたという伝承もこれに属する。メキシコのアステカ人にも、彼らの祖先たちが太陽神フィツィロポクトリの教示とその導きにより、テスココ湖の島にあったサボテンの上に1羽のオオワシが大蛇をくわえたまま翼を広げて止まっているのを発見し、神託によってこの地を都と定め、国を建設したという伝承がある。7世紀の中国の史書『梁書(りょうしょ)』扶南(ふなん)伝にみえる東南アジアの扶南王国の伝承には、昔、徼国(きょうこく)という国の神人混填(こんてん)が神から弓を授けられ、夢のお告げに従って航海を続け、扶南の町に至った。そして扶南の先住民族の女王柳葉(りゅうよう)を降伏させて彼女と結婚し、国を治め、生まれた7人の子もそれぞれ七つの町を支配したとある。このほか『三国史記』や『三国遺事(いじ)』などにみえる古代朝鮮のいくつかの建国伝説にも、同様なものがある。高句麗(こうくり)の始祖東明王朱蒙(しゅもう)は、河伯(かはく)(川の神)の女(むすめ)を母として、日光の感精によって生まれた神人である。弓矢に卓越していた朱蒙は、夫余国の王子たちに憎まれて追われるが、あるとき川を渡ろうとすると、神の冥助により魚やスッポンが浮かび、橋となった。やがて3人の賢人を得て沸流水(ふるすい)のあたりに住居を定め、先住の国王松譲(しょうじょう)と弓の射競べをして勝ち、高句麗を建設したという。また光の子の沸流(ふる)と温祚(おんそ)の兄弟が、10人の臣たちとともに住む地を捜し、兄の沸流は中途で死んだが、弟の温祚が広州の地に都を定めて百済(くだら)を建てたという伝承などもある。
こうした他国よりの流離と漂泊ののち、神託や神助を得て都を定め、王祖となったという点は各国の神話に共通している。神託、神助、奇跡などの超自然的要素を取り除いてみれば、一種の流浪民が肥沃(ひよく)の地に至ってその国の女性と結婚し、支配者となるという筋で、その根底にはおそらく似たような史実があったと思われる。日本では日の御子(みこ)たちが日向(ひゅうが)から舟で東に進み、幾多の危難を越えて大和(やまと)に侵入し、その末弟の神武(じんむ)天皇が橿原(かしはら)に都を定め、比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)を后(きさき)として即位したという「神武東征伝説」がこれに属する。
[松前 健]
『星野良作著『研究史神武天皇』(1980・吉川弘文館)』▽『井上秀雄著『古代朝鮮史序説――王者と宗教』(1978・寧楽社)』