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建畠大夢 たてはた たいむ

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美術人名辞典の解説

建畠大夢

彫刻家。和歌山県生。本名弥一郎。東美校卒。温和な写実表現で、初期文展より朝倉文夫北村西望とともに官展の三羽烏として重きをなす。長く東美校教授をつとめ、北村西望らと共に八ッ手会を、また門下生を率いて直土会を組織し後進の指導育成にも努めた。帝国芸術院会員。昭和17年(1942)歿、62才。

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百科事典マイペディアの解説

建畠大夢【たてはたたいむ】

彫刻家。和歌山県生れ。本名弥一郎。東京美術学校白井雨山につき,在学中文展に入賞。1916年北村西望らと〈八ツ手会〉を組織。のち門下生を集めて〈直土会〉を組織するなど,美術教育に努めた。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

建畠大夢 たてはた-たいむ

1880-1942 明治-昭和時代前期の彫刻家。
明治13年2月29日生まれ。東京美術学校(現東京芸大)在学中から文展に入選するなど官展で活躍。大正8年帝展審査員,9年母校の教授となる。10年北村西望らと曠原(こうげん)社を結成,昭和12年芸術院会員となる。作品に「ながれ」「感に打たれた女」など。昭和17年3月22日死去。63歳。和歌山県出身。本名は弥一郎。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

建畠大夢
たてはたたいむ

[生]1880.2.29. 和歌山,有田
[没]1942.3.22. 東京
彫刻家。本名弥一郎。初め医師,のち彫刻家。大阪の医学校,京都美術工芸学校を経て,1911年東京美術学校彫刻科を卒業,のち同校教授。在学中から文展などに入賞し,27年に帝国美術院会員,37年に帝国芸術院会員となった。また 16年に八つ手会,21年に曠原社,40年に直土会を結成。さらに美術教育にも深い関心を示し児童彫塑展を開催した。主要作品『ながれ』 (1911,東京国立近代美術館) ,『童女像』 (26) ,『夢』 (39,京都市立美術館) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

建畠大夢
たてはたたいむ
(1880―1942)

彫刻家。和歌山県生まれ。本名弥一郎。京都市立美術工芸学校を経て、1907年(明治40)東京美術学校彫刻科選科に入学、在学中の08年第2回文展で『閑静』が一躍三等賞を受けたのをはじめ、初期文展で受賞を重ねて注目された。19年(大正8)から帝展審査員を歴任、翌年には東京美術学校教授となり、堅実穏健な写実表現により、朝倉文夫(ふみお)、北村西望(せいぼう)とともに、大正・昭和戦前期を通じて官展系彫刻界に指導的な役割を果たした。17年北村西望と八つ手会を、21年曠原(こうげん)社、40年(昭和15)には門下生により直土会を組織した。27年帝国美術院会員。代表作に『ながれ』『感に打たれた女』『こだま』などがある。[三木多聞]

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)
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世界大百科事典内の建畠大夢の言及

【明治・大正時代美術】より

…荻原守衛は帰国してまず太平洋画会に迎えられ,また夭折したこともあって,彼がロダンに学んだ生命感にみちた近代彫刻は官設展に根付かず,文展・帝展の主流は巧みな描写技術と主題主義であった。彫塑の朝倉文夫,建畠大夢(たてはたたいむ)(1880‐1942),堀進二,池田勇八(1886‐1963),大理石彫の北村四海らがあげられるが,これらのなかでは朝倉文夫が傑出しており,《墓守》(1910),《いづみ》(1914)のように,的確な自然主義の作品を残した。 再興日本美術院には,平櫛田中,佐藤朝山(1888‐1963),内藤伸(1882‐1967),吉田白嶺(1871‐1942)の4人の木彫家で彫刻部が新設された。…

※「建畠大夢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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