弓削庄(読み)ゆげのしよう

日本歴史地名大系 「弓削庄」の解説

弓削庄
ゆげのしよう

古代の弓削郷(和名抄)に成立した荘園大堰おおい川の支流弓削川流域の山間部に位置し、荘域は近世の弓削郷一一ヵ村(上弓削・上中・下中・沢・矢谷・清田・井崎・塩田・赤石・田貫・室谷)のほか知井ちい棚野たなの(現美山町)の一部を含んだ。

平安末期より後白河院の長講ちようこう(跡地は現京都市下京区)領となり、弓削庄と称される。建久二年(一一九一)一〇月日付長講堂所領注文(島田文書)に、

<資料は省略されています>

とあり、種々の公事物を貢納し賦役を務めた。

徳治二年(一三〇七)一〇月には臨時課役の材木調達について、弓削本庄下村(江戸時代の清田・沢・矢谷三ヵ村をさすか)と、枝郷知伊村(知井村)・棚野村との間に八丁はつちよう山の境界争いが起こっている(→八丁山


弓削庄
ゆげのしよう

和名抄」久米郡弓削郷の郷名を継ぐものか。上弓削・下弓削を遺称地とし、史料上に仏教ぶつきよう寺・神目こうめ村・立野村全間またま村、河口かわぐち(現御津郡建部町)などがみえるので、誕生寺たんじようじ川流域から全間川流域に至る現御津みつ建部たけべ町北東部より現久米南町の大半が庄域に推定される。

平安末期には池大納言家領であった。源平争乱の結果、没官されて源頼朝に与えられた。しかし故池禅尼の恩徳に報いるため、頼朝はもとのごとく池大納言家領として平頼盛の知行を認めた(寿永三年四月五日「源頼朝下文案」久我家文書)。文治二年(一一八六)二月には兵粮米徴収が停止されている(「吾妻鏡」同月二一日条)。正嘉元年(一二五七)九月一七日の三条局譲状案(久我家文書)に「ゆけの庄」預所がみえ、文永二年(一二六五)閏四月二九日の関東御教書(同文書)によって安堵されている。


弓削庄
ゆげのしよう

旧大和川(長瀬川)の流域平野、近世の若江郡東弓削ひがしゆげ村ないしは志紀郡西弓削村付近にあったと思われる大和法隆寺領。「法隆寺別当次第」の範信大僧都の項に「嘉禄元年乙酉七月甲申晦日戊子、依弓削荘訴訟、聖霊院御影御上京在之、(中略)但訴訟不成就」とみえる。これによれば以前から法隆寺領であったらしいが詳細は不明。訴訟内容もわからない。「聖徳太子伝私記」にも、法隆寺末寺末庄などのうちに庄名があがるが、所属郡名は書かれていない。貞和二年(一三四六)九月一〇日、和泉国高石新右衛門、河内国宮河八郎の入部乱妨があり、庄民が守護細川氏に訴え、庄内から追出したことがあった(斑鳩嘉元記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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