上弓削村(読み)かみゆげむら

日本歴史地名大系 「上弓削村」の解説

上弓削村
かみゆげむら

[現在地名]京北町大字上弓削 上川かみかわ下川十一じゆういち沢尻さわじり筒江つつえ

弓削一一ヵ村の一。大堰おおい川の支流弓削川の最上流に位置し、丹波路に沿った山間集落。街道を北上すると深見ふかみ(現美山町)に、南下すると上中かみなか村に至る。西は山を越えると赤石あけし村・田貫たぬき村、東は山国やまぐに初川はつかわ村・小塩おしお村。上弓削村は実際は十一・沢尻・河上(上河か)・筒江の四ヵ村に分れていた。村内の筒江にいわはな古墳群がある。

慶長七年(一六〇二)幕府領、寛延二年(一七四九)頃より旗本武田氏領となる。元禄一三年(一七〇〇)丹波国郷帳によると村高は四ヵ村に分けて記され、「河上(上河)村」二〇四石余、「沢尻村」一三〇石余、「十一村」三三二石余、「筒江村」二〇一石余で、合計八六九石余。


上弓削村
かみゆげむら

[現在地名]弓削町上弓削・沢津さわづ狩尾かりよう大谷おおたに久司浦くじうら

弓削島北部を占める村。弓削島の形を頭をあげて突進する鯨とみれば、その頭部にあたる。村の三方は海で、東と北は百貫ひやつかん島により備後のよこ島(現広島県沼隈ぬまくま内海うつみ町)に対し、西は京小きようのこ島を挟んで生名いきな村と因島いんのしま(現広島県因島市)に対する。南は下弓削村に接している。四角形の村で、集落は沿岸に分布する。

島全体がもとくし村とよばれて一村であったが、のち上下二村に分れた。慶安元年伊予国知行高郷村数帳(一六四八)越智郡の項では「弓削嶋 日損所、野山有、松林少有」、村高三二〇石二斗と記し、一村として取り扱っているが、寛永一三年(一六三六)検地帳ではすでに「弓削島之内上櫛村」としている。


上弓削村
かみゆげむら

[現在地名]北野町上弓削

西縁を大刀洗たちあらい川が流れ、南縁を流れる筑後川に合流し、肥沃な沖積低地であるが、やや地高で水田が比較的少ない。「和名抄」に記す御井みい郡弓削郷の遺称地とされる。「高良玉垂宮神秘書」によれば、高良こうら(現久留米市)の衣服田六町が置かれ、宮座を構成する一二名のオトナのうち一人を出していた。また遷宮祭の大菩薩御供に参列する筑後の国人のなかに弓削氏がみえる。天文三年(一五三四)「三井郡之内弓削岩花」の三〇町などが草野親永に隠居料として預け置かれた(閏正月一三日「大友義鑑知行預ケ状」草野文書/久留米市史7 資料編古代・中世)。天正一二年(一五八四)大友義統は高良山大祝(鏡山保真)の忠節を賞して「ゆ気」の六町など一一ヵ所を預け進めている(同年三月二八日「大友義統袖判知行坪付」大友家文書録/大分県史料三三)


上弓削村
かみゆげむら

[現在地名]久米南町上弓削

津山往来に沿う村で、南は下弓削村、北は南庄東みなみしようひがし村。中世は弓削庄に属し、稲岡いなおか庄に属した南庄東村との境界に一里塚があった(作陽誌)誕生寺たんじようじ(弓削川)の開析した平坦地がある。永禄一二年(一五六九)七月吉日の沼本豊盛抱分名職注進状(美作古簡集)に上弓削とみえ、地内に吉貞名・貞行名・大工出作名があった。正保郷帳に村名がみえ、田二五六石余・畑一一一石余。元禄一〇年(一六九七)の美作国郡村高辻帳では改出高一〇一石余・開高五三石余、村位は中。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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