弓削郷(読み)ゆげごう

日本歴史地名大系 「弓削郷」の解説

弓削郷
ゆげごう

和名抄」にみえるが、高山寺本・刊本とも訓を付していない。河内国若江郡弓削郷(現大阪府八尾市)を「由計」(高山寺本)・「由介」(刊本)と訓じているのでこれに従う。

桑田郡内の北東部に位置し、大堰おおい川の支流弓削川と、由良川の上流にまたがる山間地域。郷域は、弓削一一ヵ村(上弓削・上中・下中・沢・矢谷・清田・井崎・塩田・赤石・田貫・室谷、現北桑田郡京北町)のほか知井ちい一二ヵ村(中・下・北・南・河内谷・江和・田歌・知見中・知見・芦生・白石・佐々里、現北桑田郡美山町)と、平屋ひらや一〇ヵ村(上平屋・安掛・又林・長尾・野添・深見・下平屋・荒倉・大内・上久保、現美山町)の一部、宮嶋みやじま一一ヵ村(原・板橋・宮脇・下吉田・市場・中・島・棚田・沢田・和泉・上司、現美山町)の一部、つるおか一九ヵ村(河合・松尾・神谷・名島・洞・田土・庄田・棚・殿・船津・今宮・栃原・砂木・上吉田・林・熊壁・脇・山森、現美山町)の一部を包含すると思われる。


弓削郷
ゆげごう

「和名抄」にみえ、高山寺本は「由計」、東急本は「由介」の訓注を付す。郷名は弓削氏が居住したことによるのであろう。河内国に弓削氏が居住していたことは、「新撰姓氏録」(河内国神別)に弓削宿禰がみえることでわかるが、「続日本紀」宝亀三年(七七二)四月七日条の道鏡伝に「道鏡、俗姓弓削連、河内人也」とある。また天平宝字六年(七六二)八月二七日付の造石山院所労劇文(正倉院文書)

<資料は省略されています>

とあり、弓削氏が若江郡に住んでいたことがわかる。弓削連は天武天皇一三年(六八四)に宿禰を賜っているから、弓削連と弓削宿禰は同じ氏と考えてよい。称徳天皇は道鏡との関係から弓削郷の地に由義ゆげ(現八尾市)を造り、宝亀元年四月六日に行幸、八日に弓削氏の男女に物を賜い、一一日に弓削宿禰牛養ら九人に弓削朝臣の姓、弓削連耳高ら三八人に宿禰の姓を賜った(続日本紀)


弓削郷
ゆげごう

弓削庄を引き継いだ近世郷。弓削川流域の上弓削(上河・十一・沢尻・筒江)上中かみなか下中さわ矢谷やたに清田せいだ井崎いざき塩田しおた各村と田原たわら川流域の赤石あけし田貫たぬき室谷しつたんの計一一ヵ村を郷域とする。

大永年間(一五二一―二八)以降宇津うつ城に拠る宇津氏に侵略されたが、天正七年(一五七九)宇津氏が明智光秀に滅ぼされ、一時明智氏領となる。同一〇年光秀敗死後は亀山かめやま(跡地は現亀岡市)城主羽柴秀勝に支配されるが(織田家譜)、同一三年秀勝の死で前田玄以がこれに代わる(寛政重修諸家譜)


弓削郷
ゆげごう

「和名抄」諸本に訓はない。旭川の支流誕生寺たんじようじ川流域の段丘面を中心とする、現久米郡久米南くめなん上弓削かみゆげ・下弓削付近に比定される。誕生寺川左岸の下弓削に弓削廃寺があり、付近に原位置から移動された塔心礎が残る。


弓削郷
ゆげごう

「和名抄」諸本とも文字の異同はなく、訓を欠く。「太宰管内志」は「由介と訓ムべし」とし、郷名の由来を「弓削部の住りし処にて負せたるべし」とする。遺称地名として鎌倉期の弓削庄、戦国期の弓削、近代の弓削村がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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