(河村昭一)
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豊臣政権下の京都の所司代。民部卿法印,徳善院と号する。五奉行の一員。美濃の出身で比叡山で得度したという。織田信忠に仕え7000石を与えられていたが,1582年(天正10)の本能寺の変に際し三法師(織田秀信)の後事を託されて岐阜に逃れ,三法師を擁して清須に赴いた。そして織田信雄のもとで京都の奉行となったが,豊臣秀吉が政権を掌握してのちもそのまま京都の庶政を担当し,故実に通暁する才能を深く信頼された。85年丹波亀山5万石を領し,95年には関白豊臣秀次の問責に当たり,その妻妾を亀山に預った。96年(慶長1)徳善院と号し,秀吉の晩年に五奉行の一員に加えられた。1600年の関ヶ原の戦には石田三成の西軍にくみしたが,裏面では徳川氏にも意を通じていたため所領は安堵された。3男5女があり,三男正勝の家系が幕臣として存続した。《玄以法印下知状》は京都の庶政を示す史料として著名。
執筆者:岩沢 愿彦
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安土(あづち)桃山時代の武将。名は宗向、号は徳善院、半夢斎(はんむさい)。通称を民部卿法印(みんぶきょうほういん)と称した。もと尾張(おわり)小松寺の住職とも伝えられるが明らかでない。織田信忠(のぶただ)に仕え、本能寺の変に際して信忠の子三法師(さんぼうし)を託され尾張に逃れた。この功により織田信雄(のぶかつ)から京都奉行(ぶぎょう)を命ぜられたという。また、一説には豊臣(とよとみ)秀吉の右筆(ゆうひつ)を勤めていたのを抜擢(ばってき)されたともいう。1585年(天正13)に丹波(たんば)亀山5万石を領した。98年(慶長3)秀吉が五奉行の制を定めるとその一人となり、おもに禁裡(きんり)御用地、門跡(もんぜき)領、寺社領の管理や洛中(らくちゅう)洛外の支配を担当した。関ヶ原の役(1600)には大坂城の留守居(るすい)を勤めたが、戦後、所領を安堵(あんど)された。
[佐々悦久]
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1539~1602.5.7
織豊期の武将。号は半夢斎・民部卿法印・徳善院。織田信忠の家臣で,本能寺の変に際し,信忠の子三法師(秀信)とともに逃れた。その後京都奉行となり,豊臣秀吉に仕えた。1585年(天正13)丹波国亀山城主となり5万石。95年(文禄4)近江国八幡城主。豊臣政権の五奉行の1人として活躍。関ケ原の戦では西軍に属して大坂城に残ったが,戦後本領を安堵された。
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…1598年(慶長3)7月ごろ豊臣秀吉の死を前にして設置された。前田玄以,浅野長政,増田(ました)長盛,石田三成,長束(なづか)正家の五名で構成される。豊臣氏の奉行は政権の樹立以来存在し,初期の奉行には桑原貞也,杉原家次,細井方成,石田三也(成),増田長盛,大谷吉継,伊藤秀盛など多くの人名を挙げることができる。…
…貞勝は82年の本能寺の変で信長の嫡子信忠とともに二条御所で討死した。このあと,清須会議を経て82年羽柴(豊臣)秀吉は桑原貞也を京都の奉行としたが,同年8月7日には桑原を罷免して杉原家次,浅野長吉(長政)に替え,ついで83年には織田信雄の家臣であった前田玄以をもって充てた。玄以の施政は村井の施政を継承したが,朝廷や寺社に対してはその干渉を強めていった。…
※「前田玄以」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
各省の長である大臣,および内閣官房長官,特命大臣を助け,特定の政策や企画に参画し,政務を処理する国家公務員法上の特別職。政務官ともいう。2001年1月の中央省庁再編により政務次官が廃止されたのに伴い,...
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