日本大百科全書(ニッポニカ) 「張群」の意味・わかりやすい解説 張群ちょうぐん / チャンチュン(1889―1990) 中国の政治家。四川(しせん)省生まれ。辛亥(しんがい)革命のとき上海(シャンハイ)で陳其美(ちんきび)の下で働き、日本の陸軍士官学校に留学、のち馮玉祥(ふうぎょくしょう)や蒋介石(しょうかいせき)の下で政治活動に従事、国民党内の政学系を継承しつつ知日派とされた。1933年湖北省主席、1936年外交部長、1938年行政院副院長、戦後の1947~1948年には行政院長として国共調停に努力した。台湾に逃れてからは1960年から総統府秘書長を務めた。[加藤祐三][参照項目] | 蒋介石 | 陳其美 | 馮玉祥 出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「張群」の意味・わかりやすい解説 張群ちょうぐんZhang Qun [生]光緒15(1889).5.9. 四川,華陽[没]1990.12.14. 台北中国,台湾の政治家。日本の陸軍士官学校卒業。辛亥革命で陳其美軍に参加し,蒋介石と知合った。軍閥戦争の時期は岑春けんや馮玉祥のもとにいたが,1926年蒋介石のもとで北伐に参加し国民革命軍総司令部参謀となり,以後蒋と行動をともにした。 29年上海特別市市長。 33年湖南省政府主席,35~37年外交部長,37年国民党中央政治会議秘書長,38~39年重慶行営主任,40~45年四川省主席などの要職を歴任。 46年日中戦争終結後の国共停戦三人委員会の国府代表として共産党側の周恩来と交渉。 47~48年行政院院長,49年西南軍政長官などをつとめた。蒋介石の信任が厚く,また国民党内の知日派として第2次世界大戦後も日本との交渉にしばしば登場。 54~72年台湾政府の総統府秘書長,71年日華協力委員会総会顧問として訪日,72年総統府上級資政。 75年訪韓。著書に『我与日本七十年』など。 出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「張群」の解説 張群 ちょう-ぐん 1889-1990 中国の政治家。光緒15年4月10日生まれ。日本の振武学校卒業。北伐後,蒋介石(しょう-かいせき)の側近となる。中国国民党の重鎮で,上海特別市市長,四川省主席などを歴任。1946年アメリカの特使マーシャル,共産党の周恩来との三人委員会で国共停戦協定を成立させた。内戦敗北後は台湾総統府秘書長をつとめた。1990年12月14日死去。102歳。四川省出身。 出典 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusについて 情報 | 凡例
百科事典マイペディア 「張群」の意味・わかりやすい解説 張群【ちょうぐん】 中国,国民政府の軍人,政治家。四川省の人。1916年政学会入会。陳其美,岑春【けん】(きんしゅんけん),黄郛(こうふ)らに接近。1926年蒋介石の信を得て国民革命に参加。湖北省政府主席,外交部長などを歴任。抗日戦中は行政院副院長,国防最高委秘書長など。1954年台湾で総統府秘書長,のち総統府資政。 出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報