1920年代の中国でおこなわれた,北洋軍閥を打倒して国民党の支配を確立した革命。1927年の国共分裂を境に前後期にわかれ,性質は一変する。五・四運動後の1919年10月,孫文はみずからの党派の名称を中国国民党と定め,広東を根拠地に段祺瑞の北京政府と対抗した。しかし陳炯明(ちんけいめい)の裏切りにあって22年8月,上海に走った孫文はソ連代表とも接触し,国共合作に踏み切った。24年1月,広州における国民党第1期全国代表大会では,連ソ・容共・労農援助の三大政策をともなう新三民主義の旗印のもと,国共合作の方針に見合う改組が断行され,反帝国主義・反軍閥の革命綱領が確定された。中央執行委員には李大釗(りたいしよう)ら,同候補には毛沢東ら共産党員も入り,ボロジンが最高顧問となった。五・四運動と十月革命の影響で民衆の力量に注目するにいたった孫文にすれば,中国共産党の活動力を取り込み,中国を平等に遇するソ連と提携して革命をすすめようとしたのである。一方,中共は孫文の威望を重視し,ソ連ないしコミンテルンは東アジアにおける反帝闘争の高揚をねらったのである。大会後,革命の軍隊をつくるべく黄埔軍官学校(校長蔣介石,政治部主任周恩来)が創立され,指導者養成のために農民運動講習所なども設立された。
孫文逝世後,広東政府は汪兆銘を中心とする国民政府に改組され,26年7月,蔣介石を国民革命軍総司令として北伐を開始した。国民革命軍はソ連赤軍に学んで党代表制を取り入れ,政治教育を行ったため,軍閥軍に比べて戦闘精神にひいで,とりわけ葉挺の独立団をはじめ,共産党員が重要な役割を果たした。農民運動が燃えあがった湖南はいうまでもなく,湖北でも江西でも民衆の支援を得た北伐軍は3ヵ月ばかりで長沙,武漢,南昌を手中にした。そして翌年3月には,労働者のゼネストで解放された上海に入り,また南京を攻略した。広州の国民政府は26年12月に武漢に移り,帝国主義者の挑発に反撃した民衆運動の勢いに乗じて,翌年1月漢口と九江のイギリス租界を実力で回収した。このあと列強は南京を砲撃,多数の市民を虐殺して直接干渉に乗り出すとともに,革命内部の傀儡(かいらい)として蔣介石を選んだ。かくして北伐は中止され,国民革命のヘゲモニー争奪戦が展開されることとなる。
そもそも国民党の右派は国共合作に反対であった。右派の反共策動は25年8月,容共左派の中軸廖仲愷(りようちゆうがい)の暗殺で頂点に達したが,このときは中間派の蔣介石が左派とむすび,右派の胡漢民,許崇智(右派軍の領袖)を追放して結着がついた。翌年3月,蔣介石は中山艦事件を挑発して共産党系の武力基盤をゆるがせ,5月の二中全会に党務整理案を提出して共産党の活動制限をはかった。左右の対抗勢力を弱めたうえ,北伐の勝利をふまえ総司令部を南昌に移した蔣介石は,国民政府の主導権掌握をはかって南昌遷都を主張する。武漢遷都は左派らによるそれへの対抗策だったが,蔣介石は27年,四・一二クーデタを起こして上海労働者を血の海にしずめ,右派とむすんで武漢に対立する南京政府を組織した。武漢の党中央と政府は蔣介石の罷免討伐を宣言したが,蔣介石が代表していたのは帝国主義と中国の有産階級(地主とブルジョアジー)の意向だったから,宋慶齢らごく一部の左派は容共の立場を堅持したが,国民党の右傾化がしだいにすすみ,7月に国共分裂,8月には南京政府による武漢政府の統合となった。この間の責任はコミンテルンが負うべきだと思うが,分裂後の白色テロの嵐はすさまじく,その弾圧に抗して共産党は農村根拠地による独自の革命の道をすすむことになる。南京と武漢の妥協は双方の領袖,蔣介石と汪兆銘の下野が条件となっていたが,28年1月,蔣介石は国民革命軍総司令に復職し,4月に北伐を再開した。国民革命軍はすでに蔣介石を中心とする国民党傘下の諸軍閥の連合軍以外のなにものでもなかったが,張作霖らの北方軍はもはや戦闘能力なく,6月には北京をすてて敗走した。北京占領と同時に国民党は軍政期終了を宣言,31年6月に訓政時期約法を公布した。のち47年1月には憲法を公布し形式的には国民革命を完成したが,解放にいたるまで国民党の支配下では蔣介石の独裁が行われたのであって,国民革命完成の日が国民党支配崩壊の日となった。国民党軍閥支配の確立に終わったとはいえ,国民革命は1920年代半ばの世界革命の焦点だったのである。
→軍閥
執筆者:狭間 直樹
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①〔フランス〕Révolution nationale ナチ占領下フランスのヴィシー政権(1940~44年)が行った反共和的なフランス刷新運動。フランスの敗因を共和主義にみるヴィシーは,共和政にかえて権威的で位階的な秩序によるフランスの改造を企てた。「労働,家族,祖国」というスローガンのもと,カトリックのモラルに依拠し,職人的で農民的なフランス革命以前の社会を指向したが,中途半端なものに終わった。結果的に,国民革命は対独協力と重なり,ユダヤ人の追放に典型的な抑圧装置のみが稼働した。
②〔中国〕一般には1924年の国民党の改組から28年の北伐完了までの中国の統一をめざした軍事行動をいう。その目標は対内的には封建軍閥の打倒,対外的には不平等条約の撤廃による国家の完全独立,自由の獲得である。孫文を中心とする国民党は24年1月改組を行い,連ソ・容共・扶助工農の三大政策にもとづく新政策を採択,国共合作を決定,黄埔(こうほ)軍官学校を設立するなど,国民革命実施の準備を進めた。国共合作は孫文の死後,国民党内の矛盾を激化させたが,とにかく国民革命軍は共産党の支援のもとに華中に進出することができた。27年4月の上海クーデタを皮切りに国民政府は武漢と南京に分裂した。しかし,蒋介石(しょうかいせき)による国共分裂によって,共産党の排除ののち,党内の体制が整うと,国民革命軍は再び北伐を開始し,28年6月最終目標の奉天軍閥張作霖(ちょうさくりん)を追って北京に入り,北伐を完成した。
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中国、第一次国共合作期の革命運動。1920年代に入り、中国国民党が三民主義に反帝国主義、反軍閥の内容を明瞭(めいりょう)に盛り込み、連ソ容共・工農扶助の三大政策を打ち出し、それにより国共合作が成立して以後、五・三〇事件に始まる民族解放闘争が空前の高まりをみせた。これが国民革命とよばれるものである。この国民革命の高まりのなかで、国民政府は中国共産党の支援、協力のもとで北方軍閥の打倒を目ざす北伐戦争を開始することを決め、26年7月蒋介石(しょうかいせき/チヤンチエシー)を総司令として国民革命軍を北上させた。北伐軍は早くも年内に南方の6省を席巻(せっけん)し、呉佩孚(ごはいふ/ウーペイフー)、孫伝芳(そんでんほう)らの軍閥を破って北方の張作霖(ちょうさくりん/チャンツオリン)と対峙(たいじ)した。しかし国民政府内部の左右の対立は、蒋介石による南昌(なんしょう/ナンチャン)占領後、決定的段階に達した。蒋介石は27年4月12日、まず手始めに上海(シャンハイ)でクーデターを引き起こし、ここに第一次国共合作は終わり、国民革命は挫折(ざせつ)した。それ以降、真の意味の国民革命の課題は、中国共産党と党が指導する人民大衆の新民主主義革命へと引き継がれていった。
[山下龍三]
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