弾誓寺(読み)たんせいじ

日本歴史地名大系 「弾誓寺」の解説

弾誓寺
たんせいじ

[現在地名]大町市大字大町 六九町

現大町市街の西部、かまど神社の北東にある。曹洞宗、帰命山弾誓寺ととなえる。本尊阿弥陀如来坐像。

鎌倉時代初期に、仁科氏が館之内たてのうち館から現天正てんしよう寺の位置へ移館した時、現大町市大字社の木舟やしろのきぶねにあった仁科氏の祈願寺である常福じようふく寺もここに移し、同名の寺として創建されたと寺伝にいう。後に江戸時代初期、相模国浄発願じようほつがん寺の末寺として天台宗に属し、弾誓上人を開基とし、弾誓寺と改称された。弾誓寺の木食山居上人故信法阿は伊那の人といい、江戸時代中期、弾誓寺に入ると自ら仏像を彫刻し、万体仏彫像の発願をした。現北安曇きたあずみ郡や現大町市域には随所に「万之内 木食山居作」とか「万之内 虫蔵山居作」などの墨書銘のある仏像がみられるが、法阿の作であり、素朴で穏和な彫法に特色がある。


弾誓寺
だんせいじ

[現在地名]相川町四町目

町部やや西寄りの県道両津―佐和田―相川線沿い山側にある。天台宗、帰命山と号し、本尊阿弥陀如来。もと比叡山延暦寺末。現在町内の天台宗寺院は当寺のみ。寺伝によると、寛永一三年(一六三六)木食行者の唱嶽長音が建てた阿弥陀堂に始まるという。長音は相川町の出身だが、師の但唱が、浄土宗知恩派の念仏行者弾誓の弟子であるところから、宗祖の名を寺名としたとみられる。「佐渡相川志」では、弾誓は、天正一八年(一五九〇)佐渡へ渡り、やがて相川町に住み、佐渡海府かいふ檀特だんとく山で難行の末に法力を得、秋田を経て京都大原おおはらの阿弥陀堂へ入り、慶長一八年(一六一三)に没したとする。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「弾誓寺」の解説

弾誓寺

(長野県大町市)
信州の古寺百選指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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