当間村(読み)とーまむら

日本歴史地名大系 「当間村」の解説

当間村
とーまむら

[現在地名]大里村仲間なかま

島袋しまぶく村の南にあり、西は南風原ふえーばる間切喜屋武ちやん(現南風原町)。「琉球国由来記」の御嶽の項には大里うーざとう間切当真とーま村とみえるが、年中祭祀には当間之殿が与那覇ゆなふあ(現南風原町)に載る。当間村と同名村が小禄うるく間切・中城なかぐしく間切にある。なお「球陽」尚貞王三一年(一六九九)条によるとこの年大里郡「与那堂村」が当村に属している。琉球国高究帳には記載がなく、宮城なーぐしく村の高頭四四七石余に含まれていると思われる。


当間村
とーまむら

[現在地名]中城当間とうま北上原きたうえばる

屋宜やーじ村の南にあり、西は新垣あらかち村、東は中城なかぐすく湾に面する。絵図郷村帳に当間村とある。琉球国高究帳によれば高頭九四石余で、うち田七〇石余・畠二四石余。脇地頭は康熙五六年(一七一七)一一月二一日に久米村系の梁氏(上江洲家二代)一一世梁煌が任職して以降、乾隆三八年(一七七三)一一月一四日から道光八年(一八二八)頃までの同一三世梁光地と梁氏上江洲家の系統が続いている(梁姓上江洲家家譜)


当間村
とうまむら

[現在地名]鉾田町当間

ともえ川北岸に位置し、北は鳥栖とりのす村。「常陸国風土記」に「郡より東北のかた十五里に当麻たぎまの郷あり」とある当麻郷の遺称地とされる。室町初期には巴川北浦に流出する河口に位置し、応安年間(一三六八―七五)の海夫注文(香取文書)に「たうまの津 みやかさきの知行分」と記される。領主宮崎氏は津支配者として、香取神宮への海夫税を請負っていた。宮崎氏は応永二三年(一四一六)上杉禅秀の乱に禅秀側に荷担し、所領を失った。以後戦国時代を通じて周辺諸勢力の抗争の地となり、一定の領主は存しなかった。


当間村
とーまむら

[現在地名]那覇市当間とうま

赤嶺あかんみ安次嶺あしんみ両村の西にあり、小禄うるく間切のやや中央西側の高地に位置する。同間切成立以前は豊見城とうみぐすく間切に属し、絵図郷村帳には豊見城間切に「多宇間村」とみえる。琉球国高究帳でも同間切に属し、「多宇間村・赤嶺村」の高頭一七四石余、うち田一二一石余・畠五三石余。「当間ノ嶽」「当間之殿」「仲間之殿」「赤嶺巫火神」があり、いずれも赤嶺ノロの祭祀管轄(琉球国由来記)明治六年(一八七三)地頭職当間親雲上の家禄三〇石・物成九石余、作得一六石余(琉球藩雑記)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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