明治~昭和期の政党政治家。号は木堂(ぼくどう)。安政(あんせい)2年4月20日備中国(びっちゅうのくに)(岡山県)の大庄屋(おおじょうや)犬飼家に次男として生まれる。1868年(明治1)14歳のとき父が急死した。21歳で上京、『郵便報知新聞』に寄稿し、その原稿料で慶応義塾に学んだ。1877年西南戦争に際し報知社より特派され、従軍記者として活躍した。1880年豊川良平(とよかわりょうへい)らと東海社を設立し『東海経済新報』を創刊、主幹として編集を担当した。1881年先輩矢野文雄の勧めにより尾崎行雄(おざきゆきお)らとともに統計院に入る。このときの関係から以後30余年にわたり大隈重信(おおくましげのぶ)の陣営に属することとなった。明治十四年の政変による大隈の失脚で同院を退官、翌1882年立憲改進党の創立に参加し、東京府会議員に芝区より選出された。以後50年にわたり政党活動を続けることになった。1887年後藤象二郎(ごとうしょうじろう)の大同団結運動に参加、1890年最初の総選挙に岡山県より立候補して当選、その後17回行われた総選挙に毎回当選を果たした。政党の離合集散に伴い1895年進歩党、1898年憲政党、憲政本党、1910年(明治43)立憲国民党に所属した。1896年には松方正義(まつかたまさよし)と大隈の提携のために奔走し、松隈内閣(しょうわいないかく)を実現させ、1898年の隈板内閣(わいはんないかく)では尾崎行雄の辞任のあと文相に就任した。これらの時期を除けば、その所属する政党はつねに野党でしかも少数派であり、藩閥政府攻撃の一勢力として議会で活躍、雄弁家として知られた。1912年(大正1)第一次護憲運動では先頭にたって活動し、尾崎行雄とともに「憲政の神様」と称せられることとなった。また対中国政策にも深い関心をもち、孫文(そんぶん)の革命派の亡命を援助したり、中国人居留民子弟の教育機関大同学校(横浜)の校長にも就任した。1918年寺内正毅(てらうちまさたけ)内閣が設置した臨時外交調査会に参加、これが政権接近への一つの転機となり、1923年第二次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣、1924年護憲三派内閣に逓相(ていしょう)として入閣し普通選挙法の実現に努めた。一方、1922年には立憲国民党を解党し、中野正剛(なかのせいごう)、尾崎行雄らと革新倶楽部(くらぶ)を結成した。1925年普通選挙法が実現するや革新倶楽部を立憲政友会と合同させ、自らは政界引退を決意して逓相、議員を辞任したが、再選され議席に復帰。1929年(昭和4)政友会総裁に就任し、1930年浜口雄幸(はまぐちおさち)民政党内閣のロンドン海軍軍縮条約締結に対し議会で激しい政府攻撃を展開した。1931年民政党内閣の瓦解(がかい)を受けて犬養内閣を組織した。長い政治生活の大半を反藩閥、立憲政治実現のため活動したが、晩年にあっては、むしろ親軍勢力に妥協し、軍部など非立憲的勢力の強化をもたらした。昭和7年5月15日、軍部政権樹立をねらう海軍青年将校らによって暗殺された(五・一五事件)。
[芳井研一]
岡山市にある犬養毅の生家は19世紀の建築として重要文化財に指定されている。
[編集部]
『伝記刊行会編『犬養木堂伝』全3巻(復刻版・1968・原書房)』▽『山陽新聞社編『話せばわかる 犬養毅とその時代』上下(1982・山陽新聞社出版局)』▽『時任英人著『明治期の犬養毅』(1996・芙蓉書房出版)』▽『時任英人著『犬養毅――その魅力と実像』(2002・山陽新聞社)』▽『御厨貴監修『歴代総理大臣伝記叢書20 犬養毅』(2006・ゆまに書房)』▽『小林惟司著『犬養毅――党派に殉ぜず、国家に殉ず』(2009・ミネルヴァ書房)』
政党政治家。備中国(岡山県)庭瀬藩の郷士の家に生まれる。通称は仙次郎,木堂と号した。1875年上京,翌年慶応義塾に入学。《郵便報知新聞》記者として西南戦争に従軍した。慶応義塾を中退し,80年朝吹英二,豊川良平とともに《東海経済新報》を発刊,保護貿易論を唱え,自由貿易論の《東京経済雑誌》と対抗した。81年統計院権少書記官となったが,いわゆる明治14年の政変により,大隈重信に従って下野し,再び《郵便報知新聞》記者となった。82年立憲改進党の結成に参加,86年《朝野新聞》に移り,大同団結運動で活動した。90年第1回総選挙に岡山県第3区から立候補当選,以後第18回総選挙まで連続当選し,42年間にわたって衆議院に議席を保持した。96年進歩党の結成に参加,長州閥・自由党に対抗するため薩摩閥に接近し,第2次松方正義内閣と提携した。98年自由・進歩両党が憲政党に合同し隈板(わいはん)内閣が成立すると,尾崎行雄辞任後の文相となった。憲政党分裂後は憲政本党筆頭総務に就任し,いわゆる桂園時代を野党の闘士として送り,山県系官僚と結んで政権接近を策す改革派に対し,非改革派を率いて抗争を重ねた。この間,日本に亡命した金玉均,孫文らを庇護し,中国革命同盟会結成を援助するなど,大陸問題への強い関心ぶりを示した。1910年立憲国民党を結成し,大正政変に際しては桂太郎の新党に党員の過半を奪われたが,政友会の尾崎行雄らと提携して護憲運動の先頭に立ち,尾崎とともに〈憲政の神様〉と併称された。しかし第1次山本権兵衛内閣には好意をよせ,シーメンス事件にもあいまいな態度をとり,17年寺内内閣の臨時外交調査会に参加して人気を落とした。18年以降普通選挙を唱え,22年革新俱楽部を結成し,翌年第2次山本内閣の逓相となった。24年憲政会,政友会と結んで第2次護憲運動を推進し,護憲3派内閣の逓相となったが,25年普選法が成立すると革新俱楽部を政友会へ合同させ,政界を引退した。しかし後援者の要請でみずからの欠員による補欠選挙に当選,29年田中義一急死後の政友会総裁に迎えられ,ロンドン条約問題では軍部,政友会に呼応して浜口内閣の統帥権干犯を攻撃した(統帥権干犯問題)。31年12月政友会内閣を組織し,金輸出再禁止をおこない,軍部に同調しつつも満州事変の収拾をはかったが成功せず,議会政治擁護の主張が軍部急進派の攻撃の的となり,五・一五事件で射殺された。犬養内閣は第2次大戦前最後の政党内閣であった。
執筆者:江口 圭一
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(時任英人)
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明治〜昭和期の政治家,漢詩人 首相;政友会総裁。
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1855.4.20~1932.5.15
明治~昭和前期の政党政治家。号は木堂(ぼくどう)。備中国生れ。慶大中退。新聞記者から官僚となったが明治14年の政変で下野。第1回総選挙で当選。以後,立憲改進党・進歩党・憲政本党で活躍。1910年(明治43)立憲国民党を結成し,第1次護憲運動では尾崎行雄と並び「憲政の神様」と称され,第2次護憲運動でも革新倶楽部を率いて活躍。25年(大正14)同倶楽部を立憲政友会と合同させて政界を1度引退。29年(昭和4)政友会第6代総裁になり,31年末には内閣を組織して金輸出再禁止を実施,満州事変の処理をはかったが,翌年の5・15事件で殺害された。辛亥(しんがい)革命を支援したアジア主義者でもあった。
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…(2)保護貿易政策の論拠としてのアイルランド問題。犬養毅,東海散士らは,イギリスとの自由貿易がかつてアイルランド経済を破壊したごとく,自由貿易政策は日本経済を破滅させると説いた。明治末までの一つの大きな主張であった。…
…結成宣言では,天下民衆との握手,現状打破,党弊刷新を表明した。党議決定による構成員の拘束を廃止し,党首を置かず,自由な革新的政治クラブであることを建前としたが,事実上の党首は犬養毅であった。現役代議士の職業別構成をみると,弁護士や自由業という新中間層に属する者が多いのに対し,会社重役の比重が相対的に低く,長らく官吏や軍人であった者が1人もいないところに特徴があり,彼らの80%は専門学校または大学の卒業生であった。…
…決起の最終計画は5月13日に決定された。 計画にしたがって,5月15日午後5時半ごろ三上卓中尉ら海軍将校4名,士官候補生5名の第1組が首相官邸に自動車で乗りつけ,日曜日の休養をとっていた犬養毅首相を襲った。犬養は〈話せばわかる〉と制したが,山岸宏中尉が〈問答無用,撃て〉と叫び,黒岩勇予備役少尉と三上がピストルで犬養を撃ち,犬養は午後11時26分絶命した。…
…その戦記は読者に喜ばれ,錦絵にもなった。77年の西南戦争には《東京日日新聞》の福地源一郎,《郵便報知新聞》の犬養毅ら4人の記者が従軍したが,このときも記者としての従軍は認められず,福地は参軍本営記室つまり軍の記録係としての従軍であった。朝鮮における1882年の壬午軍乱,84年の甲申政変にも有力紙は特派員を送ったが,軍が正式に従軍記者を認めたのは94‐95年の日清戦争からである。…
… 列強利権の交錯するなかでの革命であっただけにその影響は全世界におよび,とりわけ隣国日本の反応は敏感だった。この機に乗じての中国分割論,あるいは列強との強調による保全論が叫ばれ,さらには犬養毅らによる日中提携論も唱えられた。また革命による君主制の打倒が天皇制と家族制に及ぼす影響を憂慮するむきも多かった。…
…また,党内には軍部や右翼の一部と結んで党のリーダーシップを握ろうとする者も現れ,政友会の基盤とされてきた地主層が頻発する小作争議によって安定性を失ったこともあって,政党としての主体性を確保することが困難になっていた。そのため29年田中の死後は長老の犬養毅を後継総裁に推すことで党の一体性を保持し,31年満州事変以後,若槻民政党内閣が閣内対立のため倒れると,犬養を首班とする政友会内閣を組織した。ただちに前内閣の金輸出解禁を修正して再禁止策をとって世界恐慌下の日本経済の混乱に応急策を施した。…
※「犬養毅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
〘 名詞 〙 年の暮れに、その年の仕事を終えること。また、その日。《 季語・冬 》[初出の実例]「けふは大晦日(つごもり)一年中の仕事納(オサ)め」(出典:浄瑠璃・新版歌祭文(お染久松)(1780)油...
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