恵美酒町
えびすちよう
濠川の西へ二筋目、木挽町筋の町。現在では濠川を越えて西へ延びている大手筋と、木挽町筋との交差する辺りが町域。夷町とも書く。
「豊公伏見城ノ図」には、恵美酒町及び南の八幡町以西、阿波橋通以北、高瀬川以東の地に「傾城町」と記し、城下町時代に遊郭があったように描かれているが、伝承では城下町時代の遊里は柿木浜辺りにあり、阿波橋西方の柳町に移されるのは寛永三年(一六二六)ということであるから、寛永以降の状況を示したものとも考えられる。木挽町筋という呼方は、慶長一八年(一六一三)開削された高瀬川を利用し、薪炭や材木運送を主とする高瀬舟の船頭・舟子・綱曳きなどの労働者が多く居住したからといわれる。
恵美酒町
えびすちよう
[現在地名]伏見区撞木町
夷町とも書くが、町の形から撞木町とよばれる場合が多い。撞木とは丁字形をした木鎚で鐘をたたく用具で、両替町十五丁目から北に延長された道路が、鑓屋町の方から西へ枝分れした道に突当って、この形をなす。公認の傾城町としてつくられ、江戸時代中頃まで繁栄した。「豊公伏見城ノ図」によると、富田信濃守・谷出羽守屋敷等のあった所であろうと推定される。両替町通から伏見城外堀を北へ渡ると、すぐに恵美酒町である。
天保(一八三〇―四四)頃の所属町組は北古家組、明治元年(一八六八)一二月の改正で四番組に所属。
恵美酒町
えびすまち
[現在地名]姫路市魚町・塩町
姫路城南西の外曲輪に位置する町人町。俵町の南にある東西の町筋で西は西魚町、東は竪町。恵比須町(姫路府志)・夷町(「本多家在姫路覚書」中根家文書)とも記す。町名の由来は料理茶屋の恵美酒屋があったからとする説(大正八年刊「姫路市史」)などがある。慶長六年(一六〇一)の町割で成立。慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図に「ゑびす町」とみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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