デジタル大辞泉
「木挽町」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
Sponserd by 
こびき‐ちょう‥チャウ【木挽町】
- [ 一 ] 東京都中央区銀座の歌舞伎座付近の旧地名。江戸時代、森田座・山村座など多くの芝居小屋があったため、それをさしていうことが多い。
- [ 二 ] ( 木挽町に歌舞伎座があるところから ) 歌舞伎座の通称。〔模範新語通語大辞典(1919)〕
- [初出の実例]「七月木挽町の二番目には梅ごよみを出すべき筈なり」(出典:荷風随筆(1933)〈永井荷風〉歌舞伎座の稽古)
出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報 | 凡例
Sponserd by 
木挽町
こびきちよう
[現在地名]中区丸の内一丁目
片端から堀切筋に向かって走る碁盤割西端の南北道路、木挽町筋の最北に位置する。片端と京町筋上畠橋との間の一丁をいう(町名起因並町家由緒)。慶長年中(一五九六―一六一五)築城の際、木挽小屋を設けその後木挽職人が定住したため、町名が生じた。清須越しではない(尾張城南陌名由緒)。創建時期は不明。万治三年(一六六〇)までは上畠町西の切、すなわち五条町に属したが、寛文元年(一六六一)現町名に。
木挽町
こびきちよう
[現在地名]館林市西本町
館林城下西端付近にあった職人町。北は塚場町、東は材木町に続く。寛文元年(一六六一)閏八月、徳川綱吉の館林入部後、城下町が西方に拡張されたときに新設された。延宝二年(一六七四)の城下町図にみえ、「館林記」には萱葺家二四、男四二・女二七とある。寛文―延宝頃の館林町先規之次第覚書(館林市立図書館旧蔵)によると、延宝九年当時二〇軒の木挽職が居住し、材木町にも四軒の同職が住んでいた。
木挽町
こびきちよう
[現在地名]岐阜市木挽町
古屋敷新田村の内。南北に延びる両側町。明暦元年(一六五五)の成立といわれ、町名は当時木挽職人が多かったことによるという(旧岐阜市史)。西に上茶屋町が並行して延び、東は金華山山際。北は岐阜町惣構堤に突当り、南は山口町に至る。享保年間(一七一六―三六)の成立と推定される町絵図(徳川林政史研究所蔵)に町名がみえる。
木挽町
こびきちよう
南北の心斎橋筋の両側町で、北は九之助橋通を挟んで錺屋町に接し、南は八幡筋まで。北から木挽町北之丁・同中之丁・同南之丁と並ぶ。明暦元年(一六五五)の大坂三郷町絵図では木挽町とのみあって北・中・南の区別はされておらず、古い形を示すのかもしれない。名鑑類にも北・中・南の区別をつけずに所付しているものも多い。
木挽町
こびきまち
[現在地名]米沢市春日一丁目・同三丁目
北袋町の東、南北の道の両側の下級家臣屋敷町。当町の東裏には重臣色部家下屋敷があり、また当町と北寺町とを結ぶ道の東側にも上級家臣下屋敷が配置されている。町名は木挽職人が多く居住していたことに由来し、承応二年(一六五三)の城下絵図、享保一〇年(一七二五)の城下絵図には北部に木挽屋敷一一軒がみえる。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
Sponserd by 
木挽町
こびきちょう
東京都中央区銀座の東部にあった地名。江戸初期に、江戸城大修理の工事に従う木挽職人(鋸引(のこぎりびき)人夫)を多く住まわせたのが地名の由来。その後、寺や大名の別邸、さらに町人の住宅地となり、柳生(やぎゅう)道場が開かれ、絵島・生島事件(えじまいくしまじけん)(1714)を引き起こした山村座があった。現在、歌舞伎座(かぶきざ)がある。東京地下鉄日比谷(ひびや)線・都営地下鉄浅草線東銀座駅があり、商業地として発展している。
[沢田 清]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
Sponserd by 
木挽町
こびきちょう
東京都中央区南部の旧町名。現在の歌舞伎座周辺,銀座と築地の間にあたる。地名の由来は,江戸時代初期,江戸城大修築に従事する木挽の多くが住んだことによる。また江戸時代には山村座,河原崎座,森田座などの芝居小屋があった。いまは昭和通り沿いに,銀座の東側を形づくるビル街。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
Sponserd by 