改訂新版 世界大百科事典 「石高制」の意味・わかりやすい解説
石高制 (こくだかせい)
土地の標準収穫量である石高を基準にして組み立てられた近世封建社会の体制原理をいう。
貫高制との相違
戦国大名も貫高制に基づいた検地を行い,軍役基準を定めたが,土地面積に応じた年貢賦課が原則で,どれだけの収穫量があるかについては無関心であった。田畠をそれぞれ上中下に分け,それに応じて年貢額が算出される例もあるが,たとえば後北条氏の場合のように,田1反=500文,畠1反=165文と,年貢額は固定されていた。これに対して豊臣政権の検地(太閤検地)は,当初は指出(さしだし)を徴収する方式だったが,やがて丈量基準を定めた検地尺が作られ,検地条目に示されたとおりに計測して地質や土地柄の良否を見分け,たとえば上田1反=1石5斗,上畠1反=1石2斗といった形で標準収穫量を表示した。年貢量はこれに一定の割合(免率)を乗じて算出される。すべての土地は,田はもちろん,実際には米を生産しない畠・屋敷地も米の収穫高に換算されて石高がつけられ,いっさいが石高に結ばれる。この結果,石高が社会関係の統一的基準となり,武士階級の身分も,たとえば10万石の大名,2000石の旗本,30石の切米取という形で序列化され,百姓が所持する土地も面積ではなく石高で示され,高持百姓と水呑百姓(無高)に区別される。武士階級の主従関係も,知行石高を基準とする軍役を媒介として成立し,百姓が領主に納入する年貢も,所持石高に応じて課せられるように,近世封建社会の内部は,すべて石高を基準として成り立つような形をとる。これは,太閤検地の全国的施行を前提としていることはいうまでもない。
石高制の形成過程
米の計量単位としての〈石〉は古くから存在したから,太閤検地の施行以前にも土地が石高で表示されることがある。貫高を用いるか石高を用いるかは,この場合は土地制度の地域的慣習に根ざしたもので,たとえ石高表示でも土地の総生産額の把握には及んでいない。たとえば毛利氏の場合,旧大内氏の領国であった周防・長門では石高が,その他の地域では貫高が用いられたが,便宜上これを1貫=1石に換算することで等質とみなしていた事実が報告されている。
石高制の成立過程を考えるうえで,永禄(1558-70)末年から天正(1573-92)初年に近江で出された織田信長の領中方目録,豊臣秀吉の知行宛行状,寺社への寄進状は重要な手がかりとなろう。この場合,表示された石高が年貢高か生産高かが判然としない面もあるが,形態上は後者の,天正10年代以降の秀吉発給文書と同一である。この地域は水田稲作の生産力水準が高く,これを背景にして自立化を遂げつつあった小農民は,惣村という共同体を基盤にして,労働の成果を自己の側に留保するため,激しい反権力闘争を展開していた。そこで征服者として新たに入部した領主が,農民の抵抗を排除して錯雑した土地所有関係を整理し,一円支配を実現していくため,在地の実態を根底から把握していく手段として,土地生産力の把握につらなる石高制の成立が想定されるのである。この方式は,太閤検地の施行につれて全国にひろめられた。
石高の決定法
検地丈量によって土地に石盛(こくもり)がつけられ,石高で表示されるが,これは土地生産力を量的に把握することで一定の基準をつくり,軍役賦課や年貢徴収に役だたせるためである。生産力という質的側面(潜在能力)を数値(量)で表示するのであるから,石高は土地生産力そのものではないが,少なくともそれに基礎を置いて定められた数値であるという点で,貫高とは異なっている。また,生産力段階の地域差のほか,種々の政治的・社会的条件が勘案される場合もある。1594年(文禄3)の島津領検地では,同年に行われた畿内・近国の検地にみられないほど詳細な村位別石盛制が採用されており,1590年(天正18)の出羽国検地は貫高制によっているが,畠高は田高の2分の1から3分の1と極端に低く見積もられている。畿内近国の場合,商工業生産や流通・交通の盛んな地域では他所より石盛を高くし,分業関係を内包する社会的総生産力に照応する形をとっている。石高が土地生産力の高下を直接に表示するとは限らない。
石高制の成立
1591年秋,関白秀吉は日本全土に対し,一国単位で御前帳を徴収することを指令した。これは,郡ごとに石高(秀吉が朱印状で公認した石高)を調査して絵図(郡図)を添え,国単位にまとめられて京都の聚楽第に送られた。たとえば伯耆国の場合,南条元続の領国である東3郡と,吉川(きつかわ)元春の領国である西3郡とを合わせ,一国の御前帳に仕立てられた。実際の調査には大名があたるにせよ,個々の領主の支配領域や拝領高にかかわらず,国-郡という行政組織に基づいて石高を算定しているところに特徴がある。翌92年春には関白秀次が同様の方法で人掃令(ひとばらいれい)を発し,全国一斉に家数・人数の調査を行っている。御前帳の徴収と人掃令の発布によって,豊臣政権は初の封建的統一をなしとげた権力として,みずからの基盤とすべき石高・家数人数を量的に把握し,百姓から年貢・夫役を徴収する方式を体制的に確立した。これによって豊臣政権は,朝鮮出兵という国家的規模での大動員を支える物質的条件を強固にしえたのである。
石高制の成立は,秀吉を項点とする封建的ヒエラルヒーが全領主階級を網羅し,朝鮮出兵の際の陣立書にみられるように,たとえば九州大名は知行高100石につき5人と,軍役体系が整然とした形で成立したことを意味する。そして,領主階級は支配下の百姓から年貢を徴収することはもちろん,彼らを陣夫役・水主役(かこやく)として動員し,小荷駄隊・足軽隊や水軍・海上御用の漕ぎ手などに編成し,実際の戦闘や物資輸送にあてることが可能となった。武士と農民の身分は,太閤検地の結果としての石高制の成立によって確定づけられたのである。同様に,町人身分に一括される職人や商人も,一般百姓に課せられる郷並みの諸役は免除される代りに,鍛冶役・杣役など職人の技能に基づいた役儀を負担し,町にかかる諸種の公役を果たすことが義務づけられた。これらの役負担は,そのまま身分の確定につらなるものである。
政治的要因による石高
大名の領知高は,検地の施行または指出の提出に基づいて,秀吉(江戸時代では将軍)から個別に出される領知判物・印判状によって確定づけられるが,これと異なった方式で決められることもある。たとえば長宗我部氏の場合,1585年の秀吉の四国攻めに屈服したが,その際に陣参3000人という軍役奉仕を条件に,かろうじて土佐一国を安堵された。9万8000石という土佐の石高は,検地の結果としてではなく,軍役人数に即応する形で定められた点が特筆されよう。同じく秀吉の九州攻めに敗れた島津氏は,御前帳徴収に先立って土地面積と年貢の総収納量が調査され,そこから逆算して30万石という数値を得たが,御前帳作成に携わった石田三成が8万石を加筆し,38万石の高が決められている。伊達氏など東北の大名領では貫高制による検地が行われたが,91年に石高制による検地が行われて御前帳の高がつけられ,まもなく貫高制に復している。このように,石高の決定には,大名が豊臣政権に服属する際の条件や,領内の特殊事情などが介在した事実もある。また,対馬(宗氏)や松前(蠣崎氏)のように,朝鮮貿易や蝦夷地交易を公認され,貿易利潤によって財政を成り立たせている大名には,その本領地の石高は無高とし,家格を表示する石高を与えることでランク付けをしている。これは,土地生産力に基礎をおかない貿易利潤と石高制との矛盾を解消し,秀吉の軍役体系に包摂するためにとられた方策である。
石高制成立の意義
畿内近国を中心に,丈量を原則とする太閤検地が全国的規模で行われ,石高が決定されたという事実は,検地の手が及ばず,石盛も付けられない地域にも,別途の方式で検地施行と同じ効果をもたらし,石高制という普遍的な原理で全国を包摂することを可能にしたのである。かつての土豪・地侍層が多く残存する地域では,検地を強行すれば一揆が起こりかねない状況下にあったので,より慎重な態度で臨んだとも考えられる。丈量を行わずに石高を決定した地域の事例をもって,石高制そのものをフィクション視する見解もあるが,一面的にすぎるといえよう。石高制の原理は,領主・農民間の階級関係や領主相互間のヒエラルヒーを規定づけるものとして,江戸時代を通じて機能したが,検地が新たに行われても,表高の改定は家格の変更を伴うので,幕府の判断で適宜石高を定めた例もある。関東地方のように年貢収納が反取(たんどり)のところでは,日常的には百姓は石高を意識せずに生活していたが,郷帳作成の際には村高が石高で与えられた。地域の実情に応じて慣習的方式を採用し,石高制を機械的に適用しなかったことが,かえってそれを体制として維持する要因となったという見方もできよう。
石高制下では,米が基本通貨としての役割をもつので,米価の高騰や下落は庶民生活から領主財政にまで大きな影響を与えた。米の生産調整や輸出入によってバランスをとることは不可能であったが,凶作時には酒造制限令や禁止令が出され,豊作時には緩和されることもあった。
石高制の解体
石高制は明治維新とともに崩れ,1871年(明治4)の廃藩置県によって存立基盤が失われた。教育史の分野での研究によれば,72年の学制で,府県に割り当てられた扶助金の基準が,原案では高10万石につき3000両であったが,公布段階では人口10万人につき300両に改められたことが明らかになっている。石高制は,近代的租税制度の創出をめざした地租改正によって,その歴史的使命を終えたものといえよう。
石高制のコラム・用語解説
【石高の種類】
- 内高
- 幕府に公認されていないが,領内で実質的に産出される石高。新田開発などによって耕地面積が増加し,検地によって石高が打ち出されても,それが本高(表高)に編入されなければ,国役など幕府に対する役儀を賦課されることはないが,その土地を耕作する百姓から年貢を徴収することはできる。この部分(内高と本高との差額)が大きいほど,大名の財政は豊かになるわけである。
- 表高
- 幕府によって公認された石高で,本高・本知高ともいう。大名の場合,領知判物や黒印状によって将軍より与えられるもので,軍役賦課などの基準になり,大名の格式を決定づける要因となっている。
- 草高
- 《地方(じかた)凡例録》に,〈本高のことは草高と唱へ,諸掛り物等ニハ用ひざる由なり〉とある。取米高を基準に掛り物が課せられる地域では草高は名目化されるが,通常は領内で収穫される米の総量を意味し,年貢賦課の基準となる石高である。
- 概(平)高(ならしだか)
- 給人知行地の実収高を基準に,それが一定の免率(たとえば4割)で徴収されたと仮定して逆算された名目上の石高。知行高が同じならば実収も等しく公平が期せられるという理由で,近世中期にいくつかの藩で実施されたが,真のねらいは,従来の高と概高との差額を藩庫に入れ,財政の立直しをはかることにあった。給人の知行高は名目上は変わらないが実質は削減され,蔵入地が増加するので,給人は痛手をうけた。
- 分米(ぶまい)/(ぶんまい)
- 検地の際,一筆ごとに面積を測り,田畠の等級に応じて定められた石盛に基づいて計算された石高。中世では斗代(1反当りの年貢徴収率)に面積を乗じたもので,年貢高に相当する。
- 村高
- 《地方凡例録》に,〈石高といふハ村高のことにて,田畑を検地し土地に応じて上中下の位を分け,石盛を極め,田畑屋敷夫々の高を寄合せたるを石高と云て即ち村高なり〉とある。郷帳に記され公認された一村の石高で,国役をはじめとする諸役はこれを基準に賦課された。年貢も同様に村に対して課せられるが,本田高・新田高などの内訳ごとに異なった免率が適用され,損地分を差し引いた残りの高が対象とされた。
執筆者:三鬼 清一郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報