戸坂村
へさかむら
[現在地名]東区戸坂町・戸坂〈惣田一丁目・山根一―二丁目・中町・千足一―二丁目・山崎町・桜東町・桜西町・桜上町・くるめ木一―二丁目・出江一―二丁目・城山町・数甲一―二丁目・大上一―四丁目・新町一―三丁目・南一―二丁目〉
安芸郡の西北端に位置する。南西は新山村に接し、南は牛田村との境界をなす通称牛田山(二六一・一メートル)、東は標高三三〇―三七〇メートルの尾根に囲まれ、西北に開けた比較的に広い谷あいにあり、西北を太田川が流れる。古代には山陽道が東南の中山村から中山峠を越えて当地を通っていた。寛元四年(一二四六)五月二一日付安芸国司某下知状案(厳島野坂文書)によれば、遠兼なる者が、それまで所有していた戸坂門田内今富名九反の替地として、久武名に属する「戸坂久須木垣内」などの地の領知を国司から認められている。鎌倉中期と推定される安芸国衙領注進状(田所文書)には「戸坂道祖神免一反」とみえ、かつて大上字中の畑(現戸坂大上三丁目)にあった幸之神社(現在三宅神社に合祀)は「戸坂道祖神」の後身と考えられる。
戸坂村
とさかむら
[現在地名]市島町戸坂
中央を美和川の小支流が流れ北は与戸村、南は大野坂を越えて稲塚村大野(現春日町)。天正七年(一五七九)六月五日赤井幸家が白毫寺に諸役免許を与えた条々のうち、第四条に「戸坂浄法寺分之事」とある(「赤井幸家諸役免許状」白毫寺文書)。戸坂は白毫寺の麓にあたり、浄法寺はその末寺かと思われるが現存しない。領主の変遷は与戸村に同じ。正保郷帳に村名がみえ田高一五二石余・畠高一七石余、芝山あり、日損所。「丹波志」によれば家数四八。天保郷帳では高二四一石余。文政三年(一八二〇)と天保三年(一八三二)に稲塚村との間で山論があり、明治三九年(一九〇六)に共有林を多田村(現春日町)に売却することで解決(美和村誌)。
戸坂村
とさかむら
[現在地名]熊本市戸坂町
祇園山(花岡山、一三三メートル)の北西斜面に位置し、北と西は池田手永の谷尾崎村、西と南は同手永の新村に接する。年月日未詳の飽田南郷金光名内安芸権守押領分注文(詫摩文書)に「一所 戸坂十二町」とある。
慶長九年(一六〇四)九月の検地帳では田方二反余・畠方九町八反余、分米七五石八斗余で田方がきわめて少ない。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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